「けんりほうnews」でも何度となくお伝えしてきた、「らい予防法違憲国家賠償訴訟」(「らい予防法」に関しては冒頭の池永さんの原稿でも触れられています)ですが、1998年七月に熊本地裁に提訴された一陣の訴訟が、先日12月8日に事実上の結審を迎えました。
1907年の法の成立から1997年の廃止に至るまで90年の歴史を裁くのですから、資料は膨大なものとなり、原告側弁護団がまとめた最終準備書面は、「事実編」「責任編」「損害編」の3部合計900頁余に及ぶものとなりました。
既にニュースでご紹介していますが、この訴訟は、当時鹿児島県鹿屋市の星塚敬愛園に在園していた作家の島比呂志さんが、けんりほうnewsに寄せた『法曹の責任』という文章がきっかけとなっています。
慢性感染症であるハンセン病患者を否応なしに社会から切り離してハンセン病療養所に隔離し、一生閉じこめて出さないという、人権侵害のはなはだしいらい予防法という法律を、つい先日まで放置し、元ハンセン病患者の人権侵害から目をそらし続けてきた法律家の責任を、厳しく問う手紙でした。
12月8日には、原告3名、弁護士4名が、裁判所に対して意見陳述を行いました。
原告の皆さんの意見陳述は、らい予防法による人権侵害の実態、収容から半世紀を経ようと消えることのない被害の深刻さを浮き彫りにするものでした。
社会復帰の願いを込めて苦労して運転免許を取得し、地元のタクシー会社に就職した男性は、たまたま療養所長を客として乗せてしまったことから、法律の存在のために職を失い、社会復帰の夢を絶たれました。
はじめて授かった子どもを、当然のごとく堕胎された女性は、それから数十年を経て彼女の母親が堕胎された娘につけてくれた名前を呼びました。
「○○は生んで上げられなかった私の娘の名前です。」
堅く冷たく暗い金属製の手術台の上で、がりがりと子宮をかきまわされた経験を、一言ひとことを絞り出すように話してくれました。
55年前、婚姻と共に断種を強いられた男性は、老いて一層断種の悲しみ辛さが募ると訴え、次の歌を詠みました。
強いられて受けし断種を老いて思う
吾を限りの命かなしも
強いられて断種を受けしうつしみの
父とはなり得ず老いはふかみぬ
新しい世紀を迎える今、ハンセン病予防行政という20世紀の大きな過ちを、司法の場で明らかにすることが、これからの過ちを防ぐ最大の武器になるはずだと思います。
裁判は、熊本、東京、岡山の三地裁で、600人の原告により闘われています。来年春には熊本で判決が言い渡される予定です。
皆さんからの大きな支援をお願いします。