権利法NEWS

260号 議連続報 ハンセン病家族訴訟報告

医療基本法制定に向けての動き

事務局長 小林洋二

医療基本法制定にむけた議員連盟の結成及び同議連によるヒアリングの状況は、けんりほうニュース二五八号、二五九号でお伝えてしてきたとおりです。

参議院選挙も終わり、いよいよ医療基本法の要綱案が出てくることが期待されるこの時期に、ここまでの動きをまとめておきたいと思います。

患者の権利擁護を中心とする医療基本法の制定を求めるという運動方針は、二〇〇九年一〇月の総会で確認されました。

この方針に基づき、わたしたちは、二〇一一年一〇月には医療基本法要綱案(世話人会案)を、二〇一二年四月には患者の声を医療政策に反映させるあり方協議会(現「患者の声協議会」)とH−PAC医療基本法制定チームとともに医療基本法三団体共同骨子六項目を、二〇一六年五月にはこれに全国ハンセン病療養所入所者協議会及びハンセン病違憲国家賠償全国原告団協議会の二団体を加えた五団体による共同骨子七項目を発表し、患者・市民の声の結集を図ってきました。また、医療提供者側との連携を図るため、二〇一二年一一月「患者も医療者も幸せになれる医療を求めて」、二〇一四年一〇月「考えよう、『医療基本法』〜日本医師会の具体的提言を受けて」といったシンポジウムを行い、二〇一七年七月には、共同骨子七項目に賛同する市民団体・患者団体と日本医師会との意見交換会も開催しました。

 

そういった地道な取り組みを経て、直接、国会議員へのアプローチを前面に出したのが、二〇一七年一一月のシンポジウム「みんなで動こう医療基本法パートⅢ」でした。

このシンポジウムには、川田龍平参議院議員(無所属)、田村智子参議院議員(日本共産党)、桝屋敬悟衆議院議員(公明党)、小西洋之参議院議員(民新党)、古川俊治参議院議院(自由民主党)、阿部知子衆議院議員(立憲民主党)がパネリストとして参加しました(所属はいずれも当時のもの)。予め論点として設定された、①医療政策の基本理念、②患者の権利、③負担と給付との関係、④政策決定過程への患者・国民参加、⑤ステークホルダー論について各人がコメントしたうえ、日本医師会の今村理事による指定発言を経て、一般参加者を交えたディスカッションが行われました。

このシンポジウムの模様については、けんりほうニュース二五三号に小林展大会員の報告がありますし、わたしも、同二五四号に「なぜ今『医療基本法』が必要なのか」という感想文めいたものを寄せています。また、その全体については、パンフレット「みんなで動こう医療基本法Ⅲ」として記録化されていますので、是非、ご参照下さい。

 

このシンポジウムの成果を承けて開催されたのが、二〇一八年五月一六日の医療基本法制定に向けた院内集会でした。一一名の国会議員の発言のさわりの部分をご紹介します。

 

羽生田俊参議院議員(自由民主党):私は五年前まで日本医師会の副会長をしていました。今日来ている今村定臣先生と一緒に医療基本法のシンポジウムにも出させていただいてきました。今は参議院議員という立場におります。やはり国会というところは立法府なので法律をつくるという意味で、医療基本法をつくるための努力をしていて、超党派でつくろうという準備をしていて、私はその事務局長をする予定で準備をしているところです。………今日の主催のひとりである鈴木弁護士と一緒になってこれからしっかりと国政の場で進めていきますのでどうぞよろしくお願いいたします。

田村智子参議院議員(日本共産党):憲法二五条やあるいは幸福追求権や個人の尊厳や、そこと医療がどういうふうに繋がっていくのかを示す基本法を、ぜひ私も実現したいなと思う。同時に理念だけではなく現実に患者さんの権利に結びつき、現実に日本の医療を良い方向へと繋げていかれるような力をもった基本法になるようにみなさんともおおいに議論をし、他の政党の方々ともおおいに議論して、よい基本法をつくれるように頑張っていきたい。

小西洋之参議院議員(無所属):憲法一三条の個人の尊厳の尊重、また二五条の生存権、そうした理念を、国民生活で一番大切なものである医療を、各地域日本のどこに住んでいても適切な医療が受けられる、そうした制度仕組みを実現するには、医療基本法が絶対必要だと思います。

小川克巳参議院議員(自由民主党):まだこういったものが出来てなかったんだなあということに逆にびっくりしているのが素直な気持ちです。……日本もずいぶん遅れているものだと改めて思った。

川田龍平参議院議員(立憲民主党):ぜひ医療基本法についての院内集会をやってくださいとその時シンポジウム(註「みんなで動こう医療基本法パートⅢ」を指す)で言ったことが今日実現しました。……こういう院内集会をもっと頻繁に開いていただいて、こういう問題について取り組む、実際に法律を作るためのこの基本法をつくるためだけの議員を、実質的に法案を積極的に進める人というのを束ねて今の議連のようなものが超党派の動きを作っていかれるのであれば必要ではないかと思っている。

自見はなこ参議院議員(自由民主党):こういった医療基本法の制定をはじめとして多くの力を結集していくことで医療のあるべき姿に近づいていくことが出来たらと思います。超党派でということ本当に大歓迎でありまして、医療はまさしく超党派で国民すべてのものですので、私も微力ですが頑張っていきます。

穴見陽一衆議院議員(自由民主党):私は医療に関しては門外漢ですが、ずっといろんな生活困窮者の方が持つ様々な疾病、障がいと向き合う仕事をさせていただいております。その中で、これまで歴史の中で患者さんが虐げられて来た歴史というものがまだまだ続いています。やはり患者さまの思い、またはそこに真摯に耳を傾けていく医療というものが実現されなければならないし、またこれは大変大きなハードルでもあろうと思います。

高橋千鶴子衆議院議員(日本共産党):ハンセンの問題も、優生保護法の問題も、そして今起こっている問題も古い問題ではなくて、まず根っこにある差別意識を解消して、ひとり一人の権利を守るという立場に立っていきたい。今日は超党派の集まりだということで本当に心強く思いましたので一緒に頑張っていきたいと思います。

三ツ林裕巳衆議院議員(自由民主党):超党派で医療基本法を、これを絶対成し遂げること、もっと早くつくっておかなければならなかった法律です。やはり日本に医療基本法が無かったこと、このことは我々政治家はまず反省をしていかなければならないと思っています。国民皆保険制度をしっかり維持し、そして健康事業を推進して世界の中で平均寿命は世界第一位、そういった中で患者の皆様の権利そして個々の治療における患者さんの立場そういったことを医療者側もしっかり理解し、そしてこのことを後押しする法律、これが医療基本法であります。そういった意味でこの医療基本法、私は全力で応援させていただきたい。

玉木雄一郎衆議院議員(国民民主党):すべての人があらゆるライフステージにおいて尊厳ある生き方ができる仕組みづくりがこれまで以上に大切になっていると思います。医療基本法と、もっともベースになるすべての国民が等しく医療にアクセスできるということをしっかり確保していくということがこれまで以上に重要になってくなと思いますので、私たちは与党野党関係なくしっかり取り組んでいきたいと思います。

安藤高夫衆議院議員(自由民主党):ハンセン病の人権問題の委員会に私も病院協会の代表でずっと一〇年近くやらせていただきました。やはり憲法と個別法の間の基本法というものをきちっと作ってハンセン病とかそういうものだけではなくて、今後の医療のあり方というものをきちっと明示していくということが必要ではないかと思っています。

 

この院内集会の時点で、既に羽生田議員を事務局長とした超党派の議連結成の動きが始まっていたようですが、それが具体化したのが、二〇一九年二月六日のことでした。

この日行われた議連設立総会では、尾辻秀久参議院議員(自由民主党)を会長に選出した後、長谷川美枝子さん(患者の声協議会)、藤崎陸安さん(全国ハンセン病療養所入所者協議会)、田中秀一さん(H−PAC医療基本法制定チーム)、伊藤たておさん(日本難病・疾病団体協議会)、桐原尚之さん(全国「精神病」者集団)、小沢木理さん(患者なっとくの会INCA)、漆畑眞人さん(日本医療社会福祉士会)、洗成子さん(日本精神保険福祉士会)、横倉義武さん(日本医師会会長)、平川俊夫さん(日本医師会常任理事)が、医療基本法の必要性をそれぞれ発言しています。

その後の議連によるヒアリングの状況は前号で報告したとおりですし、五月に実施された第四回会合でのヒアリングの状況は、今号の別稿で報告される予定です。

 

医療基本法制定の必要性については、既に国会議員も含めたコンセンサスが形成されたといえます。二〇〇九年以来の医療基本法制定運動は、一〇年を経て、ここまできました。

その内容に、患者の権利擁護を中心とするわたしたちの主張をどれほど反映させることができるか、運動は新しい段階を迎えています。

 

第四回医療基本法「議員連盟」報告

常任世話人 木下正一郎

 

二〇一九年六月一四日午前八時より参議院議員会館一〇一会議室にて、第四回「医療基本法の制定にむけた議員連盟」が開催されました。

 

ヒアリング

議連より医療を受ける立場の三団体に対するヒアリングが行われました。意見を述べたのは、認定NPO法人日本アレルギー友の会理事長武川篤之さん、医療過誤原告の会会長宮脇正和さん、全国ハンセン病療養所入所者協議会事務局長藤崎陸安さんです。

武川さんは、国民生活に多大な影響を及ぼすアレルギー疾患を解決すべき社会課題として捉え、関係者とともに啓発活動をしてきた立場から、アレルギー患者が幸福で・尊厳ある・充実した生き方ができる社会の実現を最終ゴールとして目指していることを表明しました。アレルギー疾患は全身疾患であるとともに、患者でなければ分からない苦しみ・つらさを抱えた慢性疾患であること、そのため、各科に行っても各科だけでは対応できず、特に成人の場合はどこに行ったらよいか分からず、医療を受けても満足感を得られにくい状況にあることを説明しました。患者意識の変化・価値観の多様化、社会構造の大きな変化があり、今後もアレルギー疾患患者に対する医療体制が守れるのか、危惧しているとのことでした。アレルギー疾患対策基本法が成立し、二〇一五年一二月二五日に施行されたものの、これだけでは医療体制を守ることができないであろうと考え、医療基本法を成立させてもらい、アレルギー患者の医療を前進させ、ゴールを目指したいと表明しました。

宮脇さんは、医療事故被害者・遺族の立場から、医療事故は人を選ばず発生し、ひとたび医療事故が起きると、どんな方であっても医療機関と対立する状況に陥りうまく話し合いを進められず、このような状況が被害者・遺族を苦しめていることについて説明しました。二〇一五年一〇月に医療事故調査制度ができ期待していたが、現実は医療事故報告の数は少なく、かたや医療裁判は減っておらず医療事故被害者・遺族の苦しみが続いていると感じていて、医療事故の経験を次の再発防止に生かさなければならないとの意見を述べました。この点、二〇一八年四月に開催された第三回閣僚級世界患者安全サミットで各国から医療事故死亡数の報告があったにもかかわらず、日本は報告できず、いまだ医療事故の実態調査もできていないとの発言もありました。また、医療事故が起きると、被害者の家族も経済的・精神的に苦しい立場に立たされるので、家族に対しても配慮しバックアップする医療・行政が必要であると訴えました。さらに医療機関側にも医療事故に向き合える環境作りが必要であるとの意見を述べました。最後に、医療事故が起きると、ともすると医療者と医療事故被害者が対立しがちになるところ、医療安全・再発防止に向けてともに力を発揮する土台となる法律として、早期に医療基本法を成立させてもらいたいと述べました。

藤崎さんは、全国ハンセン病療養所入所者協議会が、ハンセン病療養所入所者の人権を確保するために活動してきたこと、日本におけるハンセン病問題の歴史を省みると、本来保障されてしかるべき患者の権利が、徹底的に蹂躙されてきた歴史であったことを説明しました。そして、らい予防法が廃止され、その違憲性が司法判断によって確定した今日においても、問題の根底にある、患者の権利の軽視は続いていることを訴えました。すなわち、療養所は医療施設とは名ばかりの収容所であり、患者の権利がなかったこと、いまだ改まっていないことがあることを述べられました。たとえば、病気にかかった際、療養所にいる医師の診察しか受けられず患者には医師を選ぶ権利がなかったが、いまや療養所内にそもそも医師がいないという現状があり、入所者が求める医療を受けられない状況は現在も続いているとのことでした。ハンセン病問題の検証会議の提言に基づく再発防止検討会が、公衆衛生政策による人権侵害の防止策として、患者の権利擁護を中心とした医療基本法の制定を提言しましたが、医療基本法ができることによって少なくとも患者の意思を尊重した医療が受けられること、これが権利になることが重要だと考えており、一日も早く成立してもらいたいと訴えられました。そして、自分たちが生きている間に権利が行使できる状況になることを願っているという言葉で締められました。

 

質疑応答、意見交換

その後、質疑応答、意見交換が行われました。

自民党衆議院議員の石崎徹議員が、宮脇さんの医療事故に関する報告を受けて、厚労省に対して、医療事故につき現在どのような対策をしているのか、現状に対してどのように考えているのか、全国でどの程度医療事故が発生しているのかを質問しました。厚労省医政局総務課の中沢氏が出席していましたが、手持ちの資料で把握できないので、確認の上、返答するという回答にとどまりました。これに対して、羽生田俊事務局長から、事故調査制度について説明ができないか、自民党参議院議員の古川俊治議員から、医療事故が何件かくらいは分かるでしょう、という問いかけがありましたが、これにも答えられませんでした。

羽生田事務局長は、ヒアリング団体に対して、医療基本法だけでは足りないのではないかという意見についての補足を求めました。これに対し、宮脇さんより、医療機関側と医療事故被害者とがコミュニケーションを図ることのできる場というのが必要と考えていること、その実現のためには厚労省や各自治体が果たす役割が大きいこと、今の医療事故調査制度の見直しが必要であることなどが説明されました。そして、医療基本法ができることによって行政が責任をもってこれらを後押ししていくべきであると訴えました。鈴木利廣弁護士からは、患者の権利を土台にした医療制度においては、患者の権利が侵害されることを防止したり、侵害された権利が事後的に回復・救済される仕組みがあることが大事で、こうした仕組みをつくる根拠を医療基本法に設けることが必要と考えている、その上で医療基本法の下に医療事故に関する制度とか医薬品の安全性に関する制度等、様々な個別法を置いていくことが必要であるという考えを示しました。また、藤崎さんは、平成二〇年にハンセン病問題基本法(ハンセン病問題の解決の促進に関する法律)がつくられて、国と地方公共団体の責務が定められているが、これが十分でないこと、ハンセン病患者が医療を受けるときに診療拒否をされるケースが多く、住んでいる地域の中で普通に医療を受けられる権利を確立してもらいたいことを訴えました。

共産党参議院議員の小池晃議員は、まず、医療事故の問題について基本的なことを医政局総務課の者が答えられないというところに、現在の医療行政の医療安全に対する関心の低さ、取り組みの弱さが表れている、医療基本法に医療の安全、国民が医療を受ける権利を有することをしっかり書き込むことが様々な施策を進める上で大事だと実感していると述べました。その上で、国民に安全な医療を受ける権利がある一方で、医療者側からすると高度な医療、完治を目指す医療の中で一定の危険性があると思う、両者をどういうふうに両立させていくかということが大事になってくると考えるが、これに対して、どのように整理しているか聞きたい、との質問がありました。続けて、古川議員より、外科学会では手術をすべて登録することで自分の技量をはかることができるが、そういう取り組みをするには患者の情報を広く使わせてもらわないといけない、一方で患者のプライバシーの問題がある、公益のためには患者の情報を広く使わせてもらいたいと思っているが、その点について、どのように考えるかという質問がありました。

まず小池議員の質問に対して、鈴木弁護士が、「安全を含めた最善な医療を受ける権利と自己決定権はそれぞれ別の機能をもっていると考えられてきたが、自己決定において危険情報を医療者側と患者側とで共有することによって安全性が向上する。その意味では法律的には実体的な権利と手続的な権利をうまくリンクさせていくべき。最近の医療事故の分析の中で、患者・家族との間で危険情報を共有できなかったことによって事故に至ったのではないかという観点、インフォームド・コンセントに関する分析を膨らませながら、再発防止につなげるように指摘している。」と答えました。古川議員に対しては、「産科医療補償制度において、個人識別情報をブラインドにするのは当然であるが、さらにそれを超えて医療機関や家族の同意を得なければ事故情報を開示できないという取り扱いにしている。事故情報は公益的な医療制度の中で発生している情報であるので、公益的な情報として適切に使っていく、そういう意味で医療情報は、個人情報の中で特殊な情報なのではないか、と考えており、この点も医療基本法制定にあわせ見直していくことが必要である。」という意見を述べました。

また、武川さんは、現在の医療体制の中に現状とマッチングしないところがあること、ヘルスリテラシーという考えの中で、患者も医療者も同じ土俵の上にたって理解を進めていくこと、医療の中で個人情報をどう扱うかを決めなければならないこと、現状の医療制度の中で、どこにも入らないようなことが多くなっており、医療基本法を定めてもらって、医療者、患者、行政など国民全体で話をしながら、前に進めていくことが重要であることを述べました。

日本医師会常任理事平川俊夫氏は、医療情報は重要な情報で多くを社会に還元して、医療事故の再発防止につなげられるようにすることが重要であると考えていると述べました。

参議院議員の小西洋之議員からは、医療基本法共同骨子七項目の「国民参加の政策決定」(患者・国民が参加し、医療の関係者が患者・国民と相互信頼に基づいて協働し、速やかに政策の合意形成が行われ、医療を継続的・総合的に評価改善していく仕組みを形成する。)について、具体的にどのような方法を考えているのか、構想はあるか、という質問がありました。これに対し、鈴木弁護士が、「肝炎対策基本法では中央と各都道府県に協議会を設けて、都道府県の肝炎対策協議会では八割くらいは肝炎患者を入れていただいくという形になってきている。また、一人だと発言しにくいという方がいるので、患者もなるべく複数いて、お互いに発言し合っていき、発言しやすい雰囲気をつくっていくということが重要と考える」と答えました。武川さんからは、「特に各都道府県の審議会では患者が入っていなかったり、入っていても一人である。資料も会議の場で出されたりするが、その場で出されても対応できない。」という補足説明があり、当事者意見をどう吸い上げられるかを制度の中に組み入れていくこと、各都道府県では地域格差があるので国が指針を作って各都道府県に下ろしてもらうことが必要だという考えが示されました。

羽生田事務局長が、「医療事故ではなくて、医療基本法という立場で何かございますか。」と厚労省に投げたところ、「あの、大変申し訳ありません。準備不足でございまして、あのう…」という答えでした。議連メンバーより「感想でもいいから。」「がんばりますとか、ないの。」と言われると、厚労省健康局がん疾病対策課の伊藤氏が、「私も小児科医ですが、四月から官民交流ということで、アレルギーの専門家として今アレルギーのことに関わっています。今日、アレルギーの話ですとか、医療事故の話ですとか、聞かせてもらいました。今日の話を厚生労働省に持って行きまして、担当にお伝えします。」と答えました。

患者の視点で医療安全を考える連絡協議会の永井裕之さんからは、医療は全国民がお世話になり、交通事故死より医療事故死の方が明らかに多いにもかかわらず、医療事故の問題、病気の問題について気にしていない国民がほとんどであり、ほとんどの患者はお任せ医療になっていて、患者側から本当に参画するという意識がまだないという現状・問題の指摘がありました。その上で、文科省も含めて、医療基本法を制定しながら、国民レベルで小さい頃から医療に関心を持たせ大きな問題があることを教育していくことが必要であるとの意見が述べられました。

 

閉会

最後に、尾辻秀久議連会長より閉会のあいさつがありました。「基本法は思い切り美しく作り、全会一致を目指す。このような話をしたのは、個別の法律を作る話が出たからである。議論はいろいろあるが、そのことは置いておいて、とりあえず基本法を作ることが重要である。基本法ができてスタートさせれば、それでも物が生まれていくし、一〇年もたてばここまでになっているのか、というふうになる。」という話がありました。そして、是非基本法を成立させたいと思うので、よろしくお願いします、という言葉で締めくくりました。

 

 

個人情報保護法制のはなし

第二回 カルテ開示をめぐって

〜この問題だけでもこんなにややこしい

 

神奈川 森田 明(弁護士)

 

 〈略語〉

・個人情報の保護に関する法律→「個人情報保護法」「個情法」

・行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律→「行政機関個人情報保護法」「行個法」

・独立行政法人等の保有する個人情報の保護に関する法律→「独立行政法人個人情報保護法」「独個法」

 

カルテ開示の二つのバックボーン

今日では、医療機関に自分の診療記録の開示を求めれば応じてもらえることが当たり前になっています。実際には、そうしたくても気兼ねして言い出しにくいとか、病院側が理不尽に制限してくるようなこと(高額の手数料を求められることもあります。)がなくはありませんが、少なくとも制度的には、「診療記録は患者に開示すべきもの」であることは確立しています。

一九九〇年代初めころまで、自分のカルテを入手するにも証拠保全や送付嘱託など訴訟を前提とした手続きによるしかなく、多くの医師・医療機関が「診療記録は患者本人に見せるものではない」と堂々と言っていたことに比べると大変な違いです。

その後、患者がカルテを見ることができないのはおかしいじゃないか、という声が高まり、「医療記録の開示を進める医師の会」、「医療記録の公開・開示を求める市民の会」などができました。患者の権利法をつくる会でも、一九九七年二月に、「カルテ開示〜自分の医療記録を見るために」(明石書店、一五〇〇円)という本を出版し、カルテ開示を患者の権利として確立する必要性を訴えました。後述するように国の動きも始まりました。

こうした関係者の「多年にわたる努力の成果」として、カルテ開示は認められるようになりました。ただ、カルテ開示を実現する制度とその理論的根拠には二つの流れがあり、そのことが十分理解できていないために現場での混乱が絶えません。いわば一つの馬車を牛と馬が一緒に引いているようなもので、馬車だか牛車だかわからない状態になっているということです。

 

個人情報保護制度に基づく開示

根拠の一つは個人情報保護制度です。前回述べたように、個人情報保護制度の重要な内容として、本人開示請求権があり、医療機関に個人情報保護制度が適用されることになると、結果的に「診療記録についても」本人からの開示請求ができるようになります。

まず、個人情報保護条例が制定されることで、その自治体が設置した病院では、カルテも行政文書となるので、カルテの本人開示請求が可能になります。前記「カルテ開示」では、一九九〇年代初めに神奈川県が県立病院で条例に基づく請求とその後の不服申立てにより診療記録を開示するに至るケースが紹介されています(同書八九頁以下)。

国については、旧行個法では、本人開示請求権の定めはあったものの、なんと医療情報については包括的に適用外とされていたため、この法律によるカルテの入手は困難でした。二〇〇三年に制定された現行の行個法・独個法になってようやく請求できるようになりました。

そして、同時に制定された個情法が民間事業者に開示の義務付けをしたことにより、民間の医療機関も開示の義務を負うようになりました。付け加えると、二〇一五年の改正でこの開示請求に応じなかった場合、裁判を提起できることが明記されました。

こうした、個人情報保護法制に基づくカルテ開示には、おおむね次のような共通の特徴があります。これはカルテ開示に限らず、本人開示請求一般と共通の仕組みです。その内容は次のようなものです。

〇開示請求ができる者

本人又はその法定代理人(民間事業者に対しては任意の代理人も可)に限られます。遺族についてはその遺族自身の情報と言えるような場合(診療情報で言えば、医療過誤による損害賠償請求権をその遺族が相続したような場合)でなければ請求できません。

〇開示を拒むことができる場合

厄介なことに、適用される法律により異なります。

・民間事業者の場合、個情法の定めにより、「本人又は第三者の生命、身体、財産その他の権利利益を害するおそれがある場合」「当該個人情報取扱事業者の業務の適正な実施に著しい支障を及ぼすおそれがある場合」「他の法令に違反することとなる場合」の三つです。

・行個法、独個法では、情報公開法と平仄を合わせていることから、多数の不開示規定が置かれています。行個法について、要約して紹介します。「開示請求者の生命、身体、健康、生活又は財産を害するおそれがある情報」「開示請求者以外の個人に関する情報…」「法人その他の団体等に関する情報で法人等の正当な利益を害するおそれがあるものなど」「開示により国の安全が害される情報など」「開示により犯罪の予防等公共の安全等に支障を及ぼす情報など」「審議、検討、協議に関する情報」「開示することにより事務・事業の適正な執行に支障を及ぼす情報」の七項目です。

・個人情報保護条例の不開示規定は行個法に近い構成ですが、条例ごとに異なります。

これらの法律や条例の不開示規定は、実際には診療記録については適用する余地がないものも多く、見かけほど異なるものではないのですが、開示不開示の判断の基準が違うのは混乱のもとです。

 

インフォームド・コンセントに基づく開示

インフォームド・コンセントの考え方は本人に診療情報を知らせることが前提ですから、個人情報保護の仕組みと重なるところがあります。また、臨床研究をはじめとする各種のガイドラインには個人情報取り扱いについてのルールも含まれています。ただしそれは医療者の倫理としての位置づけで、患者の権利という視点は強くありませんでした。インフォームド・コンセントが患者の権利の一環に位置づけられることにより、この観点からする本人開示も権利性を持つことになってきますが、この流れからは、カルテ開示を具体的な権利として認めることについては抵抗が強いのです。

それでも、まず、一九九七年六月には関係官庁の通達によりレセプトの本人開示が実施されるようになりました。

そして、一九九八年六月には厚生省の「診療情報の活用に関する検討会」が報告書を公表し、カルテ開示の法制化を提言しました。

このころからいろいろなグループ(日本医師会、国立大学付属病院、国立病院、自治体病院(例えば都立病院)などのくくり)でガイドラインによるカルテ開示が実施されるようになりました。自主的にカルテ開示を実施するようになったわけですが、それは、法的義務にすることだけは回避したいとの思惑もあってのことでした。

結局、「診療情報開示の法制化」については医療審議会で議論するところまでは行ったものの一九九九年六月に見送りが決まりました。

その後、二〇〇三年九月に厚労省は「診療情報の提供に関する指針」(「診療情報提供指針」)を公表しました。これは内容が微妙に異なる様々なガイドラインを整理し、医療機関の設立主体を超えて診療情報の取扱い(本人への開示、第三者への提供)について共通のルールを設けたものです。

ただし、これは医療機関にカルテ開示の法的な義務を課したものではありません。むしろこれも法制化を阻止するためのものといえます。それでもすべての医療機関を対象とするカルテ開示の指針が示されたことには大きな意味があります。

診療情報提供指針は、まず、その目的として、「インフォームド・コンセントの理念や個人情報保護の考え方を踏まえ…医療従事者等が診療情報を積極的に提供することにより…医療従事者等と患者等とのよりよい信頼関係を構築すること」を挙げています。

診療情報開示の仕組みは次のようなものです。

〇診療情報提供の方法

口頭による説明、説明文書の交付、診療記録の開示の三つを挙げています。患者とコミュニケーションを取って、信頼関係が築けるなら、必ずしも診療記録そのものの開示に限らない、という考え方です。もっとも、患者が診療記録の開示を求めた場合には開示により対応しなければなりません。

〇開示を求めうる者

患者本人、法定代理人、任意後見人のほか、「患者本人から代理権を与えられた親族及びこれに準ずる者」「患者が成人で判断能力に疑義がある場合は、現実に患者の世話をしている親族及びこれに準ずる者」です。

○遺族に対する提供

さらに注目されるのは、遺族に対する診療情報の提供が明記されていることです。まず「医療従事者等は、患者が死亡した際には遅滞なく、遺族に対して死亡に至るまでの診療経過、死亡原因等についての診療情報を提供しなければならない」としています。これは、遺族からの求めがなくとも必要なこととされているのです。

そのうえで、患者の配偶者、子、父母、及びこれに準ずる者について、診療情報の開示を求めることを認めています。ただし、「(死亡した)患者本人の生前の意思、名誉等を十分に尊重することが必要である。」としています。

遺族から開示を求めることについては、個人情報保護制度の法律、条例では前記のように極めて例外的にしか認められませんから、制約はあるにせよこれを認めたことは大きな意義があります。

〇提供(開示)を拒むことができる場合

診療情報の提供が「第三者の利益を害するおそれがあるとき」と「患者本人の心身の状況を著しく損なうおそれがあるとき」を挙げています。

 

現場の混乱

医療機関としては、カルテ開示を求められたとき、もともとその医療機関が制定していたガイドラインにより受け付けるのか、診療情報提供指針に基づく申出として受け付けるのか、個人情報保護法・条例に基づく請求として受け付けるのかにより、適用される不開示事由などが異なるわけですが、このことは現場で十分に意識されているわけではありません。

内閣府情報公開・個人情報保護審査会の平成一四年(行情)諮問第五七号にかかる答申「国立がんセンター中央病院における本人に係る診療記録の不開示決定に関する件」は、現場の無理解を象徴するようなケースです(答申の全文は総務省の情報公開・個人情報保護審査会答申データベースで検索できます)。

この事案では、情報公開法に基づくカルテの開示請求を受け付けた上、「(情報公開法では)個人に関する情報は不開示情報となっておりますので…該当となりません。また、当センターでは、受療中の患者さんに対してのみカルテ開示を行っておりますので(申請には対応できない)」として開示を拒んでいます。

たしかに情報公開法ではカルテは不開示とされますが、そのような場合、行個法により開示請求すれば可能性があることを案内すべきとされています。また「当センターでは、受療中の患者さんに対してのみカルテ開示を行っております」というのは、ガイドラインがそうなっていれば(そのこと自体も問題ですが)ガイドラインにより請求された場合に不開示とする理由にはなっても、行個法や情報公開法による請求についてこうした理由で拒否することはできません。つまり、同病院では情報公開法、行個法、ガイドラインの関係の整理がされていないままに運用したためにこうしたお粗末な対応になったものです(答申は理由の記載に不備があるので取消すべきとしました)。

このケースでは答申という形で明るみに出たのですが、表面化しないままに混乱した運用がされていることは珍しくないと思われます。

 

開示に応じてくれないケースなどへの現実的な対応

カルテの開示に応じてくれない、という相談を受けることもあります。私が接した範囲での印象ですが、不開示事由に該当するとして拒むことはあまりなく、「開示するとまずいことになりそうだ」、といった考えから「超法規的」? に開示を渋っているものが多いように感じます。

例えば、医療機関に対するクレームの一環としてカルテ開示を求めていると医療機関側が感じている場合です。クレームといっても、医療過誤を疑う場合に事実経過や病院側の認識を知るために開示を求めることは正当な権利行使であり、医療機関に損害賠償責任があるかを調べるための開示請求を、そのことを理由に拒むことはできません。

他方、本当に理不尽なクレームのなかで「記録はもっとあるだろう」「ここに書いてあることはおかしいから正しいカルテを出せ等」等と言って開示請求を繰り返すようなことは、権利濫用といわれても仕方ないかもしれません。

ただ、病院が一方的に決め付けたり、誤解していたりする場合もあるので、誤解であれば請求者側がそれを解くための対応をした方がよい場合もあります。

もうひとつよくあるのは、診療情報提供指針により、親族や遺族から開示が求められたが、親族間、遺族間で対立がある場合に、特定の人に開示することをためらうケースです。親族や遺族の「全員の合意がなければ開示しない」といった対応もあるようです。医療機関がこんなことを求める根拠はありませんが、紛争に巻き込まれたくないと考えることを一概に非難はできません。可能であれば開示を受けること自体については関係者で合意して、医療機関が及び腰にならないような状況にしておきたいところです。

 

まとめ

いろいろな制度の話をしたので、一体何を根拠に請求するのが一番よいのか、かえってわかりにくくなったかもしれません。

一般的に言えば、まず、すべての医療機関に適用され、遺族からも請求できる、診療情報提供指針に基づいて開示を求めるのが無難でしょう。これに対しては、どんな医療機関でも「ウチではカルテ開示はやってません」とはいえません。

そして、それに応じてすんなり開示してこないのであれば、指針に基づく請求は権利とはいえないので、その医療機関の設立主体に応じて、個情法(民間医療機関)、個人情報保護条例(公立病院)、行個法・独個法(国立病院・国立大学病院)により改めて請求して、不服申立てや訴訟で争うことになります。(ただし、家族や遺族の立場ではこれらの法律による請求は難しい、ということになります。)

なお、実際に開示請求をするには、診療の場ではなく、その病院の一般的な相談受付窓口でカルテ開示の手続を聞いて、開示請求の用紙などをもらって下さい。窓口の理解が不十分な場合もありますが、まずそうすることからはじめましょう。

 

医療基本法制定に向けての浮揚と澱

小沢木理

 

「基本法」を美しく作り上げたい!

低くて太い重厚な声で、『いずれにせよ基本法をおもいっきり美しく作り上げたい!』と尾辻秀久会長は述べました。議連(医療基本法制定に向けての議員連絡会)三回目の患者・市民団体からのヒアリングの締めの挨拶です。参加者全員が拍手で呼応し、その日の会は閉じられました。

尾辻会長のそのことばの趣旨は、「基本法が出来たあとの個別の問題とかいろんな議論が当然ある。しかし異論が議論になってしまうのでもうまとまらない。だから全部そんなものは置いておこう。取り敢えず基本法を作ろう。基本法さえ作っておけば、あとはなんとかなる。そこから必ず次々ものが生まれていくので、十年経ったら『おう、ここまで来たか!』と必ずなっている。だからまず〝基本法〟を美しく作り上げたい。」というものです。同会長は、「全会一致を目指す、そのためには美しく作らないと全会一致にならない」と付け加えました。

去る二月六日(二〇一九年)、待望の議員連絡会(議連)の設立総会が開かれました。そのあと、患者団体からのヒアリングが四月一〇日、一八日、六月一四日と三回にわたって開かれたことは既にほかの方からも報告があったとおりです。設立総会とヒアリング三回で、議連は計四回開催されたことになります。

初回のヒアリングでは、患者の声協議会、患者の権利法をつくる会、H−PAC医療基本法制定チームの三団体からそれぞれ法制化に向けての要請発言が行なわれました。

二回目のヒアリングは、全国「精神病」者集団、私が関わる患者なっとくの会INCA、公益社団法人日本医療社会福祉協会の三団体が参加し、それぞれ団体を代表して発言しました。

三回目は、認定NPO法人日本アレルギー友の会、医療過誤原告の会、全国ハンセン病療養所入所者協議会の三団体が発言しました。

この間全体を通して、鈴木利廣弁護士(当会常任世話人)が議連と患者団体とのコーディネート役を務めてくださったり、質疑でのフォローを担っていただいたことは大変心強いものがありました。

初回と二回目の内容については前号に、三回目については今号に木下さんから報告されていますので、それぞれの詳細については省きます。

この先、何らかの形で駒を進められるとは思いますが、どのような方向になるのかはまったく検討がつきません。現時点で議連に登録している議員の名さえ一部の方を除き知らされていません。ヒアリングで意見を述べた者にしてみたら、その先の向こうはまったく様子の分からない異空間でそこに自分たちの声を投げ入れたかのような先の見えない戸惑いの中にいるようでもあります。

〝美しく〟とはどういう美しさなのか、しばらく思いめぐらしてみたいと思います。

 

当事者参加が前提

この間、INCAは市民的視点から議連に向けて、「〝良いようにしてあげるから、あとは私たちに任せておきなさい!〟というのはイヤなんです。」というメッセージを届けてきました。つまり「おすわり!」「お預け!」的なのが一番耐えられないのです。そして続けて、「ゼロスタート」を訴えてきました。医療における法律の大前提をつくるのですから、事前の席取りは不正になります。既に席取りが始まっているようであれば、基本法は曇り状態か色付き状態か、既にバイアスがかかった状態から築かれることになります。

これまでヒアリングに参加した団体の大多数が、いわゆる七団体の共同骨子でも掲げている〝国民参加の政策決定〟は不可欠な条件だとしています。

各団体は、患者・国民が参加して医療政策の合意形成が行われること(患者の声協議会)、医療政策全般における政策評価機能の新設とそこへの患者団体の参画の保障(全国「精神病」者集団)、患者・国民が参加して医療政策の合意形成が行われることを担保する条項を盛り込むこと(日本アレルギー友の会)といった表現で要請しています。政策決定での〝国民参加〟は絶対に譲れない条件となります。

一方、三回目のヒアリングで、議連の一員でもある小西洋之参議院議員は、「患者・国民の声を医療基本法の政策に反映させて行くための仕組みについて具体的な構想はあるか」という質問をされました。まさに「それ」「そこ」です。今は理念ありきで、具体的で望ましい参加のあり方が見えてきません。

それに対し鈴木弁護士は、患者・国民の声を医療基本法の政策に反映させていくための〝仕組み〟についてではありませんが、当事者の声の〝把握・聴取するあり方〟について、薬害肝炎の取組における肝炎対策策基本法の例を挙げ、「各都道府県に協議会を設けてのレビューでは、八割くらいは肝炎患者の人を入れていただいた」という例を示しました。

また、「多数決原理の考え方も真の意味では民主主義とはいえない。より全員一致に近付けるのが望ましい。しかし、時間などの制約から苦渋の選択として多数決原理を使わざるを得ないが、そのときも少数者の意見を切り捨てるのではなく、できるだけ少数者の意見を多数決の中に組み込むという努力をすることによってより全員一致に近付くようになるのではないか。両論併記という形もある。いわゆる多数決原理を既存の価値にするのではない議論の仕方もある」と答えました。

実際、稀少難病患者や声を出しにくい条件下にある人々の声は排除されてしまいがちです。少数派の存在自体は認めてもいざ多数決原理の前ではカウントされないか、どこかに吸収されたり埋没させられたりしてしまいます。

多数決では、強者、弱者の関係が際立つことがよくあります。経済的・社会的地位など力の格差によって決定権を左右する強者の論理となることが少なくありません。

「障害者の権利に関する条約(障害者権利条約)」は、「わたしたちのことを、わたしたち抜きで決めないで!」を合い言葉に世界中の障害者が参加して作成されました。

二〇〇六年に国連で採択をされ、二〇一四年に日本政府が批准(条約に書かれたことを守ると約束をする事)しました。

実は、声を出せない人、声を上げられない人のほうが、問題が健在化して認識されている人たちよりずっと多くいても不思議は無いと思います。データを拾っていないだけ。社会に表面化しているのは、ほんの上澄みなのかもしれません。そう考えると、法律をつくる時の目線の位置は低くし、三六〇度の視野が必要になります。

生活者、患者、医療被害者、そういう当事者の問題を、優遇された既得権益者が狭量な学識という物差しで仕切ってもらっては困るのです。

七月の参議院選挙で、重度の障がいのある方を二名国会議員としてはじめて実現させたのがれいわ新選組です。まさに当事者参加の理念を実現させた画期的な先駆例です。

 

根っこは『貧困』

医療基本法は、医療における憲法二五条の生存権と憲法一三条の幸福追求権の具現化であるというのが共通認識とするならば、あまねく方の医療を受ける権利の保障が担保されるべきです。WHO憲章でも、「健康を享受することは、万人がもつ基本的な権利のひとつ」としています。そして、「健康」の定義として、「単に疾病や病弱でないことをいうのではなく、心も体も社会的にも健康であることである」としています。

では、この〝社会的に健康である〟とは一体どういう意味なのか、このことについて私たちは掘り下げて考えてきた記憶がありません。しかし、よくよく考えてみたら、この〝社会的に健康〟という状態こそが、憲法二五条の生存権と憲法一三条の幸福追求権の内実を指しているともいえます。〝医療を受ける権利〟という理念については受け入れられ易いが、その権利が保障されるために必要な〝社会的な条件を整えられる権利〟についてまでは想定されていません。医療そのものではないからと捉えるからでしょう。実際、医療を受けられない状況というのは、非常に様々なケースがありそれらをすべて挙げて説明するのは困難ではあります。しかし、そのうちの大多数は『貧困』が起因しています。「えーッ、貧困問題まで持ち出すのー」と思うかもしれません。「医療費が膨張し続けているのに、屁理屈を並べて生活の福祉までを医療と関係づけるなよ!」と。

しかし、考えてみれば、いろいろな仕切りというものは管理するための方策として生み出されたものです。一個体の人間を、管理上、便宜上分断されたシステムにあてはめただけです。ですから、生命活動としての連携がうまく行かない。現状はシステムとシステムの間を繋ぐものが無いか、あってもさまざまな問題があり機能していないことが殆どです。

特に今、重要なこととして、このシステムとシステムを繋ぐ〝間〟をどれだけていねいに埋めていけるかが求められています。まず、これまでは明確に認知しようとしなかった、このシステムとシステムを繋ぐ〝間〟に存在するものをしっかり把握することから始めなければなりません。例えば医療と介護、福祉などは至近距離の関係であり問題がたくさん介在しています。

〝社会的に健康〟という捉え方は、生存に関わる全ての根底にある価値観ともいえ、これまでは、この視点への重要度認識と取組が希薄でした。

個人の生存に必要な条件として種々の制度が作られるけど、人間は一体的・総合的な存在ですから、区分けされたシステムでは対応不十分でカウントされない部分が出て来ます。つまり〝社会的に健康〟とは、生きるに必要な状態が得られることを意味するのではないでしょうか。

七団体の共同骨子にもある、病気や障がいによって差別されない権利なども〝社会的に健康〟である条件のひとつに入ると思いますが、やはり圧倒的に多数を占めている問題が「貧困」による健康侵害です。生命活動自体が維持困難な人にとって、収入が無い、あるいは低収入でどうにも生活できない、自助共助に限界が来ているといった状況は、〝社会的に不健康〟そのものです。これらの問題は、福祉の問題であって医療の枠外であるというのが一般的な理解です。貧困者には医療を受ける以前の状態であっても、病気を抱えこみやすくなっていたり生命そのものが危機的状態にある人もいます。しかし生命や健康の問題は、「医療」を受けなければ医療制度の対象とはなりません。貧困者の中には医療という園にも辿り着けない人もたくさんいます。貧困故に病み易くなる。しかし医療にはかかれない。仮に一時的に医療を受けられたとしても、無理して体力消耗の激しい低賃金の仕事に復帰するため、病は再発し易く結果として寿命の短縮を余儀なくさせられる。

医療機関にかかることができた人の場合は、社会福祉士の存在があり患者側の経済的な相談にのってくれます。制度の谷間の問題を共に考えてくれる〝社会的に健康〟への良きアドバイザーになり得る重要な存在です。しかしそれでもその先明るい結果が得られるかの保証はありません。日本は、福祉は〝施してやるもの〟だという姿勢を貫いています。極力門戸を狭め極力出し渋ります。

繰り返しになりますが、WHO憲章では、「健康を享受することは、万人がもつ基本的な権利のひとつ」としています。そして、「健康」の定義として、「単に疾病や病弱でないことをいうのではなく、心も体も社会的にも健康であることである」としています。この理念を目標にすると、〝社会的に健康であること〟の障壁となるものの筆頭あるいは大きな理由のひとつは『貧困』であるといえます。

では〝社会的に健康〟という視点での貧困問題はどの容器に入れてだれがどこが対応するのでしょうか。福祉? 従来の福祉枠で取組むのだとしたら、貧困問題はどれくらい改善されるのでしょうか。生命や健康維持のための基本権は守られるのでしょうか。〝社会的に健康であること〟とは? やはりこのまま混沌とした時間が流れていきそうです。

 

反映するとは?

尾辻会長は、ヒアリングの終盤で「みなさんのご意見をしっかり反映し仕上げて行きたい」と参加者に向かってその決意を述べました。

わたしたちの団体INCAからは、『〝患者が泣かない医療〟〝患者が納得できる医療〟この当たり前すぎる患者にとっての権利を保障していくために必要な「医療基本法」の作成には、ゼロからのスタートが必要だ。「基本法」を作るのだから、ゼロからスタートするというのが王道。既存の価値観や先入観、社会的既得権益者の意見の優先といったことを白紙状態にする、それがゼロからのスタートということです。つまり「土台」のありようがその上に築かれる結果を左右するために、「土台」に予めバイアスがかかっていないかなど最初に検証されなければならならない。既存のものに上塗りとか、単純にテーマの取捨選択や配置換え程度では目先の色が変わるだけになる。その上で、改めて俎上に乗せるべき問題を視野に入れ検討を重ねるべきだと考えます。』という趣旨の意見を述べました。

当然、日本医師会の案に比重が置かれることを懸念しての発言です。

新憲法により主権が国民に移ったように、医療における憲法『医療基本法』では、誰もが『民は愚か(無知)に保て』という意識から脱却する必要があります。情報の共有、学習権(知る権利)、説明を求める権利などが保障されなければ患者・市民は自己決定権を行使できません。

これまでも常に医療が政治的影響を受けてきました。双方が立場を利用しあってきたというべきでしょうか。わたしたち市民は、そういう事実を前提に、あるいは容認せざるを得ず与えられるものをおとなしく受け入れて来ました。

医療従事者たちと政治家の両者がそれぞれ独立した関係であるべきなのが、そうではなかった。これからつくる「医療基本法」が、従来からの政治的関係を一切排除することなしに作られたとしたら、それはあるべき基本法の理念に背くことになり、つくる意味はないし、もしできたとしても私たちの目標:主権者の権利回復はやはり絵空事に過ぎなかったという結果になります。それだけは避けなくてはなりません。

「それでも作っていただいただけでも感謝だ」という感想が私たちの間から出ることがあったとしたら、旧来からの階級的上下関係を一ミリ程度前に進めたかどうかの話であり実に悲しいことです。

ちなみに、医療者と患者との関係が相変わらず上下関係であるのは、「強者—弱者」「施すもの—施されるもの」という階級意識を刷り込まれ、その固定関係を壊せずにきたからに他なりません。今回、「医療基本法」という共通のテーマを取り組むにあたり距離を縮めてコミュニケーションを図る機会ができましたが、それでも端緒についたばかりという印象です。この先、もっとも重要で有意義なコミュニケーションをとる機会を持てるかは未知数です。対話の機会が増えれば、双方の溝はずっと狭くなっていくと思うのですが。

医療基本法が出来たあとでも、医療者と患者とが上下関係にあるという固定観念が健在だとしたら、成立した基本法を漱ぎ直さなければなりません。

尾辻会長は、三回目のヒアリングに際し、「議員立法というのは、一遍もたつくと十年かかるという性格がある。その十年かかる方には絶対してはならない。とにかくまずは成立をさせる、それを急ぐということを考えよう。」とも話されました。そして、「基本法をおもいっきり美しいものを作る。全会一致を目指す。そのためには美しく作らないと全会一致にならない」「まず「基本法」を美しく作り上げたい」と繰り返しました。

〝全会一致を目指す美しいもの〟とは? 素案が出てくるまでは予想もつきません。いずれにせよサプライズとなりそうです。ピコ太郎の「This is a pen」で始まる、一連のあのスタイルになるのかもしれません。Simple is the bestということだとすると、でもそれって両サイドに同じ角度で傾けられるヤジロベーとなるのではないでしょうか。

そりゃそうだ、法律は時間をかけて育成していくもの。

いずれにせよ、患者が主体で患者の権利が守られるようになる十年先には多分私はもういないでしょう。

いまは今後を期待する高揚感と山積みにされた現実的な課題という澱とが交叉する中で、近い日に何らかの動きがあるのを、やはりおすわりして〝待て〟をしています。

 

ハンセン病家族訴訟についてのご報告とお礼、今後のご支援のお願い

 

前号では、判決言渡期日が変更になった旨をお伝えしていたハンセン病家族訴訟、既に連日の報道でしばしば目にされていることと存じますが、二〇一九年六月二八日、熊本地方裁判所において、元患者たちの「家族」に対する国の責任を認める判決が言い渡されました。

 

家族に対する責任を明確に認める

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自動的に生成された説明この訴訟の最大の論点は、ハンセン病隔離政策が、家族に対しても違法なものであったといえるか否かというところにありました。国はこれを真っ向から争いました。家族に対する偏見差別があるとしても、それは古来からある偏見が残っているに過ぎないか、あるいは国の政策に対する市民の誤解によるものであって、国はその偏見差別に対して責任を負わないというのが国の主張でした。

これに対して、判決は、らい予防法及び隔離政策により、偏見、差別意識が形成強化されたこと、そのため昭和一八年頃には、家族にハンセン病患者が存在することがひとたび知られてしまうと、警察官による取締を受けたり、「無らい県運動(自分たちの住む地域からハンセン病患者を撲滅するために住民相互がいわば監視役となり、潜み隠れている患について通報させるなどして患者を追い込んだ運動)」によって地域から排除されたりしてしまうなど、「ハンセン病患者を隔離収容しなければならないと確信する中上位階層者(地区の有力者や指導階級)による指示指導、さらに、それらの者のハンセン病患者及びその家族に対する差別的な態度の影響を受けることにより、周囲のほぼ全員によるハンセン病患者及びその家族に対する偏見差別が出現する一種の社会構造(社会システム)が築き上げられ」ていた、この偏見差別は、国のハンセン病隔離政策、特に戦時体制時の民族主義的国家主義的国家体制の下の「無らい県運動」によって作出助長されたもので、「古来存在した偏見差別とは生活を異にする偏見差別が全国津々浦々にまで根付いたといえる」としました。

そして、かかる社会構造に基づき、「大多数の国民らがハンセン病患者家族に対し、ハンセン病患者家族であるという理由で、忌避感や排除意識を有し、ハンセン病患者家族に対する差別を行い(このような意識に反する意識を持つことは困難な状況になった)」、「これら差別被害は、個人の人格形成にとって重大であり、個人の尊厳にかかわる人生被害であり、また、かかる差別被害は生涯にわたって継続し得るものであり、その不利益は重大である。そのうちでも、家族関係の形成阻害による被害は、家族との同居や自由な触れ合いによって得られたはずの安定した生活の喪失、心身の健全な発達や知性、情操、道徳性、社会性などの調和のとれた円満な人格形成の機会の喪失であり、人格形成に重要な幼少期に親が隔離された場合になどには、人格形成に必要な愛情を受ける機会を喪失し、かつ、かかる喪失によって生じた不利益は回復困難な性質のものである」、したがって、立法及び行政は、法律と政策によって作出・助長された偏見差別を解消する責任(作為義務)を負うところ、それを行わなかったとして、患者のみならず家族に対しても違法であったことを認めました。

 

偏見差別除去義務を認める

また、二〇〇一年の判決は、らい予防法の廃止、強制隔離政策の廃止についての国の責任を問題としたもので、一九六〇年以降強制隔離政策を廃止しなかった厚生大臣の責任、一九六五年以降らい予防法を廃止しなかった国会議員の責任を認めたものでした。

これに対し、今回の判決では、国の作為義務は一九九六年三月のらい予防法廃止のみによって果たされたとは言えない、国によるハンセン病隔離政策等の遂行によって、家族に対する偏見差別が維持強化されたのだから、隔離政策等の遂行を先行行為として、条理上、国は家族に対する偏見差別を除去する義務を家族との関係でも負わなければならない。かつ、医学の進歩にしたがって、年々隔離政策等を廃止すべきことが明確となっており、年を追う毎にこれを放置することの不当、違法は明白になっていた。したがって、厚生大臣は、昭和三九年には、当時既に医学的知見と世間一般のハンセン病に関する認識とのかい離が生じており、社会一般のハンセン病に対する恐怖心が極めて深刻であって、強力な啓蒙活動が必要であることを認識していたはずである。それにもかかわらず、法廃止に向けた手続を取るまで、長年にわたって放置してきたことになる。したがって、厚生大臣及び厚生労働大臣には、法が廃止された一九九六年(平成八年)以降は、「より高い偏見差別除去義務が課せられる」としました。

 

法務大臣・文部(文科)大臣の責任を認める

さらに判決は、法務大臣及び文部大臣(文部科学大臣)の作為義務違反も認めました。

まず法務大臣の責任ですが、偏見差別の除去のためには、家族に生じている就学拒否、いじめ、就労拒否、結婚差別等の差別が、正当化することのできない不当かつ違法な差別であることを国民に周知させ、偏見差別を廃止するよう働きかける人権啓発活動が必要不可欠である。人権啓発は法務省の所掌事務であり、法務大臣は法務省の長であるから、法務大臣は、平成八年以降、職務上尽くすべき義務として、偏見差別除去義務の一内容である人権啓発活動を実施するための相当な措置を行う義務を負う、としました。

さらに、偏見差別除去にとって教育は重要であり、教育の場で偏見に基づかない正確な知識に基づいた指導がなされなければ、社会から偏見差別を除去することは困難である、として、やはり平成八年以降、文部大臣(文部科学大臣)は、小学校、中学校、高等学校の保健、社会科及び人権教育などの科目で、ハンセン病、その患者及び家族に関する授業を行い、正しい知識を教育するとともにハンセン病患者家族に対する偏見差別の是正を含む人権啓発教育が実施されるよう教育委員会や学校に指導するなどの適切な措置を行う義務を負うとしました。

これらの判断は、二〇〇一年判決と比べても大きく踏み込んだものです。

 

判決の問題点

他方、判決は、今なお社会内にはハンセン病患者の家族に対する根強い偏見差別があることを認めながらも、なぜか、国の隔離政策や偏見差別除去義務との因果関係がある損害を、二〇〇一年末までのものに限定し、二〇〇二年以降の被害については、国の責任を認めませんでした。

実は、原告の中には、この訴訟がはじまると知った親から訴訟への参加を促され、その際に打ち明けられて、はじめて自分がハンセン病患者の「家族」であったことを知った方が何人もいます。それは、病歴者が愛する「家族」が偏見差別の被害に遭うことを恐れて病歴をひた隠しにしてきたことにほかならず、家族に対する偏見差別の現在性を如実に示すものです。

しかし、判決は、二〇〇二年以降に自分が家族であることを知り、かつそれ以前に具体的な被差別体験のない原告については、被害との因果関係を認めず、請求を棄却してしまいました。その数は二〇名にも及びます。

原告は、隔離政策によって家族がこうむった被害を、①偏見差別を受ける地位におかれた被害、と、②家族関係の形成を阻害された被害、とに分けて主張していました。家族に対する強固な偏見差別が形成されたこと(先の「社会構造」ですね)により、家族である、それだけで、いつ偏見差別にさらされるかも知れない地位におかれている、そのこと自体が被害であり、それゆえに人生の選択肢が狭められ(就職差別、結婚差別等)、秘密を抱え込まされるなどの状況に追い込まれることの被害、そして、隔離による物理的な引き離しのほか、家族に元患者がいることをひた隠しにするなどのために、家族のあり方がゆがめられ、自然な情愛に基づいた当たり前の関係が築けないという被害です。

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自動的に生成された説明判決も、被害のこの二つの枠組みについては認め、かつ、極めて深刻な被害をこうむり、数百万の慰謝料ではとうていあがないきれない原告が存在することも認めながら、原告全員に共通する損害としては、偏見差別を受ける地位におかれた被害を三〇万円、家族関係の形成を阻害された被害については、物理的な隔離がほぼ永続していた原告についてのみ、親子・配偶者の場合は一〇〇万円、きょうだいの場合は二〇万円としました。

このため、原告の半数以上はわずか三〇万円(一割の弁護士費用を加えて認容額としては三三万円)、最高でも一三〇万円(同一四三万円)という、被害の実態に照らせば、とても低い金額になってしまいました。

さらに、判決は、沖縄における作為義務の始点を、日本復帰の昭和四七年としたために、沖縄の原告については、それ以前の被害を認めませんでした。そのために、沖縄の原告とそれ以外の原告との認容額に差が生じるという不公平な結果になっています。

 

控訴阻止までのたたかい

このように、判決にはいくつかの重大な問題を指摘できるのではありますが、家族たちの受けてきた被害が、国の政策によるものであったことを明確に認めたという根幹部分において、ハンセン病問題の最終解決に向けての大きなステップになる判決だと、原告団・弁護団は評価し、少なくとも一部でも認容された原告については控訴せず、国に控訴させずに判決を確定させる方針を確認し、さっそく、国の控訴を阻止するたたかいに入りました。

まずは、全国に飛んで、各地で原告に判決報告と控訴阻止を求める方針についての了解を得、七月二日には国会議員会館に赴き、各政党との会合を持ち、「ハンセン病問題の最終解決をすすめる国会議員懇談会」の総会に参加し、夕方には星陵会館で判決報告集会を持ちました。

全国から可能な限りの原告が集いましたが、この間のたたかいを通じて、原告に共感しともにたたかってくれる覚悟を固めた多数の市民の方々が、それこそ北から南まで、全国各地から駆けつけて下さったのは本当に大きな力となりました。

こうして、七月九日には総理の控訴しない旨の発言、控訴期限の七月一二日の総理大臣談話、政府見解の表明と続き、控訴させることなく、判決を確定させることができました。

この動きの中で、棄却された二〇名の原告についてどうするのかという厳しい選択を迫られることとなりましたが、国に控訴を諦めさせる以上、こちらも苦渋の決断ながらも断念し、判決確定後の政治交渉の中で、公平な、かつ家族の被害に見合った正当な補償を求めることで、棄却原告も含めて解決をはかる方針となりました。

 

これからのたたかい

参院選後の八月二三日、家族たちがずっと求めていた総理大臣面談、厚労大臣面談が実現し、いずれも家族原告に深々と頭を下げ、謝罪し、家族の被害の訴えに耳を傾け、これからの真摯なる取組を約束しました。

さて、家族たちのたたかいは、これで終わりではありません。新たな補償法の制定による、すべての家族への公平な補償の実現もそうですが、何よりも、ハンセン病と元患者・家族への偏見差別をなくし、ハンセン病問題にとどまらず、偏見差別を克服しただれもが自分らしく生きることのできる社会の実現をめざして、いったいどういう取組が効果的で、実現可能なのか、休むことのない取組が必要となります。

その実現のためには、たくさんの市民のみなさんの後押し、共感の声が必要です。どうかこれからも、元患者・家族たちのたたかいに、あたたかい支援を、そして自ら当事者としての関わりを、よろしくお願いします。(久保井摂)