医療基本法シンポジウム「みんなで動こう~パートⅢ」の報告・感想
東京都 小林展大
1 医療基本法シンポジウムの開催
二〇一七年一一月一二日、明治大学駿河台キャンパス・アカデミーコモンにおいて、医療基本法シンポジウム「みんなで動こう~パートⅢ」が開催されました。シンポジウムの内容は、主催者挨拶、基調講演(論点設定)、パネリストである各政党の国会議員の発言、ディスカッションと会場発言、となっていました。
参加された国会議員は、無所属(現在は立憲民主党)の川田龍平さん、公明党の枡屋敬悟さん、自由民主党の古川俊治さん、日本共産党の田村智子さん、民進党の小西洋之さんです。突然の解散総選挙、新党結成等の混乱直後でありながら、これだけの国会議員が集ったことにこそ、意義があったと思います。
2 基調講演(論点設定)
前田哲兵さんによる基調講演では、次の5つの論点設定をしました。
論点① 医療制度の基本理念
論点② 患者の権利について
論点③ 負担と給付の関係
論点④ 政策決定過程への患者・国民参加
論点⑤ ステークホルダー
そして、これら5つの論点について、それぞれのパネリストから発言いただいた後、ディスカッションとなりました。
3 各政党からのパネリストの発言
各政党からのパネリストの発言は、医療基本法の制定について懐疑的な発言もあれば、医療基本法の制定を政党の公約に掲げているとの発言、医療基本法の制定は必要であるとする発言もありました。そして、日本医師会の常任理事である今村定臣氏も、日本医師会内では医療訴訟を誘発するのではないか、との懸念からそもそも医療基本法の制定の必要性に疑問を呈する意見はあったものの、現状では膨大な医療に関する法令がありながらも、これらを統括する理念を定める法律が欠けていることから、医療基本法の制定は必要と考えていると発言していました。
他にも、国民健康保険料を納められなければ、医療を受ける権利を排除してしまうという行政の実態の問題があるとの発言、医療という名の下に奪ってはならない権利があるとの発言、「基本法」と名のつく法律は、なかなか憲法と個別法をつなげることができていない実態があるとの発言、「基本法」と名のつく法律は、すべて議員立法であるとの発言等がありました。
4 パネリストディスカッションと会場発言
会場発言は、福祉職の方からの発言、医療従事者の方からの発言、一般参加者からの発言等がありました。
個人的には、国民に健康増進を求めることは、価値観の押しつけにつながりはしないか、という趣旨の発言は、その後の煙草を吸うことで他人に迷惑をかけてはならない、という趣旨の発言につながって議論を引き起こしたように思えたので、印象に残ったものです。
そして、各政党からのパネリストのまとめの発言の場面では、前述の医療基本法の制定について懐疑的な発言をしたパネリストも、医療基本法の制定の機運が高まれば、その動きに反対するものではないとの趣旨の発言をするに至っており、全体的には、さらなる議論をした上で、医療基本法の制定に向けて動くという方向性となりました。
5 参加してみての感想
私は、今回シンポジウムに参加してみて、上記の国民に健康増進を求めることは、価値観の押しつけにつながりはしないか、という趣旨の発言が印象に残っています。
患者の権利法をつくる会の医療基本法要綱案には、国民の責務について、「国民は、医療の公共性を踏まえ、その適正な利用に努めるものとする。」「国民は、自らの健康状態を自覚し、健康の増進に努めるものとする。但し、病気や障碍を、その努力義務に違反した結果であると解釈してはならない。」との条文があります。
そして、後者の条文の解説には、「自らの健康状態を正確に知り、その改善に努めることは一般的に望ましい患者像であると同時に、結果的に病気を予防し、必要とする医療の総量を小さくすることができるという意味で、医療の公共性により貢献するものとなる。医療のステークホルダーとしての自覚を促すためにも、かかる努力義務について規定することには意義があると考える。」と記載されています(医療基本法要綱案条文と解説 二一頁)。
しかし、国民各自が健康を増進すべきである、というのは(努力義務にとどまるとしても)、価値観の押しつけではないかとも考えられるし、上記解説の直後には、「個人の健康に対する価値観は千差万別であり、疾病に対する予防策を講じるか否かあるいは疾病に対する治療を受けるか否かも含めて自己決定の範疇である。」との記載もあります(同 二一頁、二二頁)。
そうだとすれば、健康を増進しないという考えも、価値観・自己決定の範疇といえるのではないかとも思います。
さらに、医療基本法は、憲法と個別法をつなぎ、憲法の理念を具現化するものであります。そして、憲法は、そもそも国家権力を制限して、国民の権利・自由を守るものであり、基本的には国民に義務を課すものではありません(国民の三大義務といわれるものはありますが)。
それならば、そもそも国民の責務についての条文を設けるべきなのか、という議論もできそうな気がします。一方で、医療基本法は、法律であって憲法そのものではないのだから、国民の責務の条文を設けても問題はないという考え方もできそうです。
今回、本シンポジウムに参加してみて、まだまだ議論してみると面白そうな問題点があるのではないかという気がしました。
自己決定ダイエット(第3回)
糖質制限ダイエットとどう向き合うか
神奈川 森田 明(弁護士)
一 挫折した試みの数々
前回からだいぶ時間がたってしまったが、いよいよ糖質制限ダイエットの話に入る。しかしその前に、私がこれまでの人生で「取り組んでみたが成功しなかった」ダイエットのいくつかを紹介する。
さらにその前に、こういうやり方だけはしない、という基本ポリシーを紹介する。次のようなことだ。
ⅰ 特殊な健康食品に依存するもの
これはお金がかかるし、その商品が販売されなくなったらおしまいである。健康食品自体が有害である場合すらある(一般的には無害でも特定の条件のある人には有害ということもある)。
ⅱ 特定の食物ばかりを食べるもの
バナナ、ゆで卵、さらにはほとんど米ばかり食べるというというダイエットもある。しかしこうした食生活が長く続けられるとは思えないし偏った食事になることから健康への不安が否定できない。
そこで実際に試みたのは次のようなものである。
・ごはん抜きダイエット
これは一番手軽にできることで、高校時代から体重が急増したと感じるとやっていた。二、三キロ減らすくらいの効果はあるが、すぐ元に戻ってしまい、結局長期的な増加を食い止められなかった。
これは糖質制限と一見同じようであるが、そうではない(詳しくは後述)。
当時の私は、糖質制限という問題意識がないため、ごはんを減らした分、ざるそばならヘルシーだからいいだろう、つけ麺だって同じようなものだろう、といった発想で、そば、うどん、ラーメン、パスタをがばがば食べていたのであるから、ダイエットになるはずもなかった。
・カロリー制限ダイエット
従来の通説的見解である。食べ物のカロリーを計算し、一日当たりの摂取カロリーを所定の範囲内に抑えようとするもの。カロリーブックを買ってみたりしたものの、考え始めると食べるものがなくなってしまい、実践するのは難しい。理屈としては正しいのかもしれないが療養生活ではなく、頻繁な飲み会も含めた社会生活を営みつつこれを行うのは非現実的と言わざるを得ない。
そもそもカロリーという概念自体に疑問を呈する医師もいる(夏井睦「炭水化物が人類を滅ぼす」一五六頁、本当かいな、とも思うが実感としては、結構説得力がある)。
もっとも、極端な高カロリー食生活が有害であることは当然であり、意識せずに高カロリー食をとったりしないために、どのような食事にどれくらいのカロリーがあるかを知っておくことは意義がある。例えば、餃子付きラーメンライスとか、カツカレーとか、トン汁付きとんかつなどの恐るべきカロリー値。また、似たようなものでも結構カロリー値が違うものもある。菓子パンの中でもメロンパンが突出して高カロリーであること、シュークリームよりアップルパイ、天丼よりかつ丼の方がはるかにカロリー値が高いといったことも知っておいた方が良いだろう。だからと言って、シュークリームや天丼なら安心して食べてよいということではないが、それと知らずに必然性もなく食べてしまうことは避けたいところである。
・レコーディングダイエット
日々の体重だけでなく、食べたもの、そのカロリーを詳細に記録するというもの。岡田斗司夫「いつまでもデブとおもうなよ」で提唱された。
カロリー制限ダイエットの一種であるが、カロリー制限それ自体ではなく、「記録する」ことを自己目的化することで、楽にダイエットを実現できるという点で画期的なものである。
確かに、体重の推移を記録するだけで一定のダイエット効果はある。しかし、日々の個々の食べ物やそのカロリーを書き出し計算することを続けるのは常人にはなしえない。ただ、岡田氏自身も言っているように、そういうことを楽しみとしてできる人もいるのであり、向き不向きがあるということだろう。
ちなみに私も以前、毎日の昼食、夕食を一年位記録していたことがある。ラーメン、カレー、スパゲティ、丼物の比率の多さに我ながら驚いたが、ごはんを減らして食べればいいか、くらいしか思わず、その恐ろしい意味に無自覚であったことに今では慄然とする。
・くーみんダイエット
歌手の倖田來未のやり方で、「一八時以降は何も食べない」ということで知られている。もっとも、他の注意事項もあり、反面「例外的に食べたときは翌日調整する」とか、弾力的なところもある。
夕飯はできるだけ早めに、夕飯後には食べない、ということは私もそうするよう努めているが、「例外」は少なくない。
・ケーキの総量規制(シール・ダイエット)
これは私の思い付きで、一九九八年ころから数年にわたり試みた。ケーキはダイエットの大敵だが、これを食べないで過ごすことは社会的礼節としても、地球環境問題としても(食べなかったケーキはただのゴミ)、私自身の幸福追求権を大きく犠牲にするという点でも妥当ではない。しかも諸般の事情から、一日に数個食べなくてはならないこともあるので、週に一個などと決めてしまうと不都合が生じる。そこで、年間の許容量を決める、つまり総量を規制するということを考えた。
年頭に小さなシール五〇枚を用意し、ケーキ一つ(ないしそれと同視すべき菓子、アイスクリームなら大きめのもので一つ、小さな饅頭なら二つで一つ分などルールを決める。)を食べるごとにシールを弁護士手帳のその日に貼っていき、年末にいくつ残るかをチェックするというものである。これは一定量食べることを許容してしまうことになるが、私のような小心者は「少しでも多くシールを残したい」という気持ちになる。五〇枚用意して二〇枚程度は残せるようになり、主観的な達成感はあったが、ダイエット効果はあまりなかった。まあ、毎年一キロ増の勢いを抑えるための一要素程度の意味はあったかもしれない。
・「ジーパンダイエット」?
一〇年くらい前に、間違って、一〇センチほどウエストの細いジーパンを買ってしまったことがある。
無理してはいて、ウエストを閉めると苦しくて一分も持たない。それでも、やせようと言う気持ちを持ち続けるべく、時々はくようにしていたが、もちろんそれ自体でやせられるわけではなく、何回やっても苦しさは変わらないので、そのうちこのジーパンはしまい込んでしまった。
ところがダイエットが成功したことで今はぴったりはけるようになり、愛用している。ダイエットの効果はなかったが、現時点では「せっかくはけるようになったのだから、再びこれがはけなくなる事態は避けなければ」という思いがあり、現在の体型を維持しようという強いモチベ—ションになっている。
二 糖質制限ダイエットとは
⑴ 出会いと特徴
さて、いよいよ糖質制限ダイエット論に入る。糖質制限というやり方は当初のダイエット計画にはなく、いわば偶然の出会いである。ダイエット計画の一つに休日の散歩がある。二〇一三年一月のある日曜日、私は三〇分ほど歩いて、とあるショッピングセンターにたどり着き、そこの本屋で休憩していたところ、桐山秀樹「おやじダイエット部の奇跡」という本に巡り合った。そこにはデブのオヤジ達が糖質制限によりダイエットに成功した実話が感動的に描かれていたのであった。そこから、関係文献を読みつつ、実践を始めた。
糖質制限ダイエットといってもやり方はいろいろあるが、その特徴を私なりに整理すると次のようなものである。
ⅰ 単にご飯を食べないというのではなく、糖質つまり米や小麦粉でできたもの全般を減らす。ジャガイモに代表される根菜などいくつかの野菜や果物も食べないようにする。もちろん砂糖を大量に使う菓子類も食べない。
ⅱ しかし糖質でないもの、つまり豆腐やこんにゃくはもとより肉や魚等は特に制限せず腹いっぱい食べてよい。酒もビールや日本酒のように糖質のものはだめだが、そうでない例えばウイスキーや焼酎はかまわない。
ⅲ 開始当初の三週間程度、徹底した糖質制限をする。これにより糖質制限に適した身体に「切り換わる」。
ⅳ あわせて適度な運動をする。
糖質制限ダイエットには三つのレベルがあるとされている。
① スーパー糖質制限 朝昼夜の三食とも主食抜き
② スタンダード糖質制限 三食中二回主食を抜く、特に夕食は抜くようにする。
③ プチ糖質制限 朝昼は主食をとり、夕食のみ抜く
このいずれを選択するかは各人の状況と嗜好に応じてでよい。もちろん効果が上がりやすいのは①②③の順である。
⑵ カロリー制限か糖質制限か
従来の通説的なダイエット方法はカロリー制限を主とするものであった。この立場と糖質制限論者との間でし烈な議論が展開されている。紙面の制約もあるので、ごくごく大まかに要約して述べる。
糖質制限論の理論的根拠は、糖質の摂取により食後血糖値が上昇し、ブドウ糖量が増えることからインスリンが大量に分泌され、これが肥満を招くことから、糖質摂取を抑えるべきだというものである(江部康二「主食をやめると健康になる」二二頁など)。カロリー制限論者もこのメカニズム自体は否定しないようだが、リスクが大きいことを指摘する。
岡本卓「本当は怖い「糖質制限」」では、糖質制限で、「死亡率が上昇」「微量栄養素が激減」「頭痛や末梢神経障害になる」「糖尿病になる」「ガン・うつ病・認知症・骨粗鬆症・心臓病・脳卒中になる」などと指摘したうえで、長期的に見て効果が上がったという根拠はない(つまりどうせ長続きしない)ので、「やめなさい」としている。
糖質制限論者からの反論としては、これらの弊害は証明されたものとはいえない、むしろいろいろな病気が治る、カロリー制限を現実に行うのは困難であり、糖質制限によるダイエット効果は明らかであるとする。
なお、付随的な効果として、糖質制限により、頭がさえて、眠くならない、などともいわれるが、私の経験上それはさほど顕著ではない。他方、反対論者の言う、糖質制限をすると、体臭が臭くなるとか頭が働かなくなるとかいうことも、一般的にいえるような大きな問題とは思えない。
さらに議論は人類史的なところに至り、糖質制限論者からは、そもそも人類は長い期間、狩猟を中心とした糖質などほとんどとらない生活をしてきたのであって、その方が自然なのだ、という。
しかしこれに対しては、人類が生存を確保し、知的活動ができるようになったのは、米麦などの糖質食品で食物が確保できたためであり、その上に文明が成り立っている。糖質の食品がなければそもそもこんな議論ができる状況自体が成り立たないのだ、という反論があり、それもそうかと思えてくる。
ただ、全般的に、糖質制限反対論者の言う危険性が、糖質を全く摂取しない前提で論じられていることには疑問がある。糖質制限を相当徹底しても、実際には糖質を完全に排除した食生活など成り立ちえないだろう。糖質制限論者であっても、糖質が身体に必要なものであることは否定していない。ただ必要以上に徹底して糖質を排除してしまう人がいることは事実のようであるが、なんであれ教条主義的な食生活をすれば弊害が起きることは当然で、それは糖質制限の正当性を否定する理由にはならないのではないか。
⑶ 私の「糖質制限」ポリシー
・糖質制限生活への「切り換え」
糖質制限ダイエットの第一のポイントは、「初期の徹底した糖質制限」であり、これにより、(表現が不正確かもしれないが)「ブドウ糖中心の代謝からケトン体中心の代謝に切り替わる」のだと言われる。これが成功すると「身体のスイッチが切り替わるような感じ」がして、以後は炭水化物ドカ食いの誘惑を感じることはなくなるという。またこの点が単なる「ごはん抜きダイエット」とは異なるところである。
私の場合もたしかに糖質制限を始めてから一月弱で「切り替わった」感があり、それが成功の最大の要因であったと思う。以後大きな空腹感を覚えること自体なくなり、一八時前に軽めの夕食を終えてから寝るまで何も食べなくても何とも思わなくなった。一食当たりの量も、少量でも何か食べれば満足できるようになった。そして、その後も減量が目に見えて達成されていくことでますます食べることへの欲望は希薄になっていった。
・プチ糖質制限食の継続
体重がある程度落ちてきて、食欲もコントロールできると思われたころから、前記のプチ糖質制限食の体制に入った。朝はサラダと少量のパン。昼は定食になりがちだが、おかずを主にして、ご飯は少しだけ食べる。夕食は基本的に主食を食べない。
ただ、フルコースの料理を食べて後日調整するということもする。それ以外にも麺類は少しなら、甘味は一定の条件下でならとるなど原則に固執しない。その代わり、体重測定を厳密に継続し、増加した場合には速やかに対処し、運動も織り交ぜて、上がった体重を戻すようにしている。
要するに私自身の信条・生き方(原則は原則として、適宜日和見的に対処するということ。)と嗜好に合うという視点から考えて、できることを続けてきたのである。
そのあたりのより具体的な取り組みについては次回に「私の実践」としてやや詳しく紹介し、それをもってこの連載の締めくくりとしたい。
書籍のご紹介
「医療基本法」
〜患者の権利を見据えた医療制度へ
医療基本法会議
日本医事法学会に所属する八名の執筆者が九つのテーマで執筆した章よりなる本書、そのきっかけとなった二〇一〇年の日本医事法学会四十周年のシンポジウムには、私も参加して、熱心な議論と詳細な資料に驚かされたものでした。
本書は二部構成になっています。第一部は「総論:医療基本法とは何か」、基本法とは何かという基礎から、改めて学習することのできる、しかも読みやすくわかりやすいと感じました。一家綱邦さんの「医療基本法論の現在地」に付された四十頁にわたる表は、シンポジウムで配布され、私が驚き感激したものを、その後の経過も踏まえて、更に充実させたもので、今後、医療基本法制定運動に取り組んでいく上で、とても強い味方になりそうです。
第二部は「各論:医療基本法に関わる様々な問題」として、医学教育、産婦人科医療、医療保障、精神科医療、医事関係法規の整備に関する法律など、各人の取り組んでいる課題に沿った論考となっています。私にとっては、上杉奈々さんの「医学教育における医療基本法の役割」が、わが国の医師養成政策の変遷や、現在の医学教育のカリキュラム(医学教育モデル・コア・カリキュラム=MCC)を概観した上で、卒前教育、臨床研修、専門医研修のそれぞれにおいて、インフォームド・コンセントをはじめとする患者の権利がどう取り扱われているのか、現状と課題を分析している点に、特に注意を引かれました。
大学医学部や病院などで、医学生や医療従事者に対して患者の権利について講義する機会に接することはしばしばです。ある病院の臨床研修管理委員にも選任されていて、研修プログラムを拝見する機会もあります。患者の権利オンブズマンの活動を通じて、つくづく感じたのは、医療従事者が「患者の権利」を正面から学ぶ場や機会は、極めて乏しいということでした。
先日、医学部でインフォームド・コンセントについて話したとき、ふと思いついて、「インフォームド・コンセントとは何か、説明してください」と、学生を指名してみました。返ってきた回答は、「患者に説明して同意をもらうこと」でした。やっぱり、という思いがしました。臨床現場に出る前の医学部生にして、既に、インフォームド・コンセントの主体は患者ではなくて医療者なのです。自分が何をしなければならないのか、どうしたら責任を問われないか、そういう視点からの発想になってしまうのだ、と嘆息しました。
医学教育や、臨床での医療従事者に対する研修で、どのように患者の権利について正しく学ぶ場をつくるか。それは、患者の権利を根付かせるためにとても重要なことだと思います。
さて、私の関心はともかく、医療基本法について、これだけまとまった論考が詰まった書籍はほかにありません。ぜひ手に取って読んでいただきたい一冊です。
(久保井摂)