市民活動としての「つくる会」
事務局長 小林洋二
前号に掲載された小沢木理さんの『市民活動の主体性つべこべ』、とても示唆的な論稿でした。ありがとうございました。せっかくの問題提起ですので、これについてのわたしの意見を整理してみたいと思います。
つくる会独自の活動と三団体としての活動
小沢さんの問題提起で、いま最も重要なのは、わたしたち「患者の権利法をつくる会」独自の活動と、患者の声協議会及びH-PACを含めた医療基本法三団体としての活動との関係でしょう。三団体での活動が中心になれば、そこで掲げるのは三団体(現在は五団体)共同骨子ということになり、せっかくつくった当会の医療基本法要綱案もそのパンフも活用の場がないではないか、という疑問は理解できないわけではありません。
しかし、共同骨子七項目は、あくまでも「骨子」であって、法律の要綱案に代わるようなものではありません。この共同骨子で合意したとしても、それをどのように法律として具体化するかというイメージは別に構築する必要があります。その具体化が、わたしたちの医療基本法要綱案なのです。
だから、これは決して小沢さんのいうような内部向けのシミュレーション教材ではありません。各市民団体にも、国会議員にも配布していますし、全体事務局には医療基本法をテーマとした講演依頼も来ています。昨年は、全国の医学生有志で構成される医学生ゼミナールのプレ企画に呼ばれましたし、福岡市内最大規模の総合病院でお話をさせていただきました。
一方、権利法をつくる会の活動の中心を、いま、どこにおくかと言われれば、わたしは躊躇わずに三団体での活動を挙げたいと思います。率直に言えば、つくる会独自の活動と、三団体の活動の二種類がある、とはわたしは思っていません。三団体の活動をリードし、それを五団体に、二十団体にと拡げていくことこそが、つくる会の活動そのものだと考えています。
つくる会の目的は何か
患者の権利法をつくる会の目的は、「医療における患者の諸権利を定める法律案(仮称)」を起草し、その制定に向け提唱及び立法要請を行うとともに、医療の諸分野における患者の権利の確立と法制化をすすめるための必要な諸活動をおこなうことです(会則一条)。
この目的は、設立当初から、基本的に変わっていません。二〇一一年以降、中心的な法律案は、「医療基本法要綱案」に変わりましたが、これは名称こそ異なるものの、「医療における患者の諸権利を定める法律案(仮称)」=患者の権利法要綱案の発展形であると位置付けられています。
では、「患者の権利法制化」のために、どのような運動が必要なのか。
一つには、「患者の権利」とは何なのか、それを法制化はどうあるべきなのかを具体的な姿として示し、多くの人の賛同を得ることです。患者の権利法要綱案は、まさにそのために策定されたものであり、実際に、日本における「患者の権利」概念の定着に大きな役割を果たしたと考えています。
一方、実際の法制化を見据えた場合、私たちの患者の権利法要綱案そのままの形でそれが実現できるわけではないということも考える必要があります。少なくとも国会議員の過半数の賛同を得なければ法律はできませんし、医療という非常に重要な政策分野の根幹をなす法律であることを考えれば、様々な議論の末に全会一致で可決されるという形が望まれます。そのためには、医療に関わる多くの人たちの合意を得ることが必要であることはいうまでもありません。もちろん、その「多くの人たち」には、患者のみならず、医療提供者側も含まれます。
患者の権利法要綱案から医療基本法要綱案への発展は、この二つの要請から導かれたものだとわたしは考えています。そしてその方針の延長線上に、三団体としての協同活動があります。というよりはむしろ、三団体としての協同活動の延長線上に、わたしたちの目指す患者の権利の法制化があるというべきでしょうか。
医療基本法要綱案パンフの活用の必要性について
とはいえ、わたしは、もっと当会の医療基本法要綱案をアピールする活動が必要ではないかという小沢さんの意見には全面的に賛成なのです。わたしが時々講演に行っているだけで十分だとは思っていません。
さきほど述べたとおり、患者の権利擁護を中心とする医療基本法の実現には、医療提供者を含めた多くの人の合意が必要です。しかし、そこで規定される患者の権利のレベルは、医療基本法の議論の中で、どれほど説得力を以て「患者の権利」の重要性、必要性を展開できるか、ということにかかってくると思われます。
そのためには、会員のみなさんが、ほんとうにこの医療基本法要綱案の必要性に納得し、その思いを多くの人に共有してほしいと思うことが大事なのではないでしょうか。そして、それを行動に移す、つまり、地域や職場で、この医療基本法要綱案について話し合うことを可能にするために作成されたのが、医療基本法要綱案の解説パンフであり、市民向けパンフなのです。
そのような企画のために、全体事務局として何かできることがあれば、ご相談に乗りますし、必要に応じて講師を派遣することも可能です。
この機会に、ぜひ、ご検討下さい。
市民活動の主体とは
最後に、市民活動の主体は何かという小沢さんの問題提起についてコメントしたいと思います。
市民活動の主体は、市民団体ではなく、それに参加している市民一人一人である、というのがわたしの考えです。そして、市民活動とは、いわゆるボランティア活動の一つであり、他人から強制されたり、義務としてなされるものではなく、希望者が自分の意思で行う活動です。つまり、「何をすべきか」ではなく、「何がしたいか」、「何ができるか」が出発点です。複数の市民の、「何がしたいか」、「何ができるか」が重なったところに、「市民団体」ができるものだと思います。
小沢さんは、「市民活動の主体は、その時期に関わっていた人たちにあるのであって設立趣旨や活動目的ですら最終的にはその人たちに委ねられるということにもなります」と書かれています。基本的には、そのとおりだと思います。設立趣旨は設立趣旨であって後で変えられるものではありませんが、団体の活動目的を変更することはあり得ることです。ある市民団体に関わる人が、その市民団体の当初の設立趣旨に拘束されて自分のやりたいことがやれない、あるいはやりたくないことをやらねばならないと感じるようであれば、団体の活動目的を変更することを考えるでしょうし、それができないのであれば脱退するだけのことでしょう。会員個人の「したいこと」、「できること」と、団体の活動目的や方針が乖離してしまえば、その会員の脱退を止めることはできません。そういった会員が多数になれば、その団体の活動は休止し、やがて団体そのものが消滅することになります。
実際、そのようにして、多くの市民団体が生まれては消えていくのではないでしょうか。
患者の権利法をつくる会の目的は、患者の権利の法制化であり、それは設立当初から現在まで変わっていません。この目的に賛同し、自分もそういった活動に参加したい、あるいは協力したい、という方が会員になっておられるものと理解しています。
患者の権利法制化を実現するのは、会員のみなさん方一人一人の力であり、想いであると、わたしは考えています。
自己紹介と私の経験した医療過誤
川崎市 小林展大
はじめまして。けんりほうnewsに初めて寄稿することになりました、川崎合同法律事務所の弁護士の小林展大(こばやしのぶひろ)と申します。私は、千葉県柏市出身ですが、現在は神奈川県川崎市の川崎合同法律事務所で弁護士として勤務しています。私の事務所は、一般民事事件、家事事件、労働事件(労働者側のみ)等を多く扱っているほか、弁護団事件にも積極的に取り組んでいます。
私自身は、一般民事事件、家事事件、労働事件のほか、神奈川医療問題弁護団に所属していることから、患者側の医療過誤事件も扱っています。また、私は、建設アスベスト訴訟弁護団、マイナンバー違憲訴訟弁護団にも所属しています。最近は、患者の権利法をつくる会の世話人会にも参加させていただいています。
実は、私は約十六年前の中学一年生の時に医療過誤にあったことがあり、その経験がきっかけとなって、弁護士を志すようになりました。今回は、自分自身の医療過誤の経験について、寄稿したいと思います。
中学一年生の一二月二三日、私が朝目覚めると、ひどい腹痛があり、吐き気もありました。ただ、従前から私はしばしば腹痛をおこすことがあったため、一時的な腹痛であると考え、自宅で横になって休んでいました。しかし、腹痛は改善せず、吐き気もおさまりませんでした。そこで、母親が私を病院に連れて行きましたが、病名や診断結果等が伝えられることはなく、念のため入院するということになりました。
それから数日間は、点滴や腹痛の痛み止めの注射を打つ等して、過ごしていましたが、症状は改善しませんでした。そして、一二月二八日に腹部のエコーをとると、私と母親は、当時の主治医から盲腸であると伝えられました。母親は、私が右下腹部の痛みを訴えていなかった(私は腹部の中央部の痛みを訴えていた)ことを主治医に伝えると、主治医は、腹部の中央部から右下腹部に痛みが移っていくことは盲腸の典型的な症例であると説明していました。
そのようにして、私は同日、盲腸の手術を受けました。しかし、翌日になっても、やはり症状は改善せず、流動食を口にすると、消化液ごと戻してしまうようになり、さらに症状が悪化しました。そうすると、両親は主治医から腸閉塞であると伝えられたそうですが、両親としては、病院に不信感を抱いたのか、私を転院させると主治医に伝えたそうです。
なお、母親によれば、思い返してみれば、私の血液検査をした担当者が、血液検査の結果から、盲腸と診断するには不自然な点があると言っていたとのことです。
上記の経緯で、私は一二月三〇日に転院することとなりました。しかし、転院先の病院では、両親が主治医から原因がわからないと伝えられたり、私自身は鼻からチューブを入れて腸にたまった消化液を排出したりして、苦しい入院生活が続きました。
この頃になると、もはや依存症になってしまったのではないかと思うくらい、腹痛の痛み止めの注射を何回も打っていました。そして、転院先の病院の主治医から、原因は明確にはわからないが、私の体力があるうちに手術をしてしまいましょうということになり、私は一月五日に再び手術を受けることになりました。
今度は、約二時間にわたる開腹手術でしたが、この手術により、腹部の内部にへその緒が残っていて、小腸がへその緒に絡みついたため、腸閉塞を発症したということが判明しました。そして、今度は手術後に次第に症状が改善していき、鼻から入れていたチューブも抜去し、食事も流動食から通常の食事になっていきました。
このようにして、私は腸閉塞が治癒して退院することができました。
なお、転院先の病院の主治医によれば、腹部の内部のへその緒というのは、自然に消えてなくなってしまうものだそうです。しかし、私の場合は、へその緒が自然に消えることなく腹部の内部に残存していたのであり、極めて珍しい症例だったようです。
以上が私の医療過誤の経験になりますが、私の上記経験で残念であったことは、なぜ腸閉塞を盲腸と誤診してしまったのか、という原因究明がなされなかったことです。当初の病院の主治医は、私の両親に対して、自身の経験と勘からすれば、盲腸であったという説明しかしていなかったようです。
私の上記経験から約十六年がたちますが、弁護士となって医療過誤事件を扱っていても、原因究明が不十分ではないかと思われる場面に遭遇することがあります。原因究明は医療事故被害者の願いの一つですから、これを実現できるように活動していきたいと思っています。
自己決定ダイエット(第2回)
「ダイエットの開始」
神奈川県 森田 明(弁護士)
1 ダイエットの必要性
六〇年余の人生の中で、私が「太っていなかった時期」はごくわずかである。
小1のときの通信簿には「栄養状態不良」という赤いハンコが押されていた。当時は喘息持ちで一年のうち数か月間欠席を余儀なくされていた。小2の時にはそれに加え、はしかも患ったために危うく進級できなくなるところであった。
その喘息が小4で治まって以降、ブクブクと太り始め、中学時代の写真を見ると見事な肥満体になっている。高校に上がると顔は少しシュンとしてきたが、体格的には変わらぬチビデブのまま。
大学の後半から本格的に司法試験に取り組むとさすがに状況が変わり、合格直後に法務省中庭でVサインをして写っている写真ではさすがにげっそりした様子で、ウエストも細い。このころ(一九七九年時点)の体重は五二キロくらいであった。
司法修習生になったとたん食べ物が良くなり、加えて弁護士になって仕事をするようになるとストレスと不規則な生活から体重が増えることは多くの弁護士が経験するところである。私もこの「職業病」に陥り、毎年一キロ位の割合で着実に体重が増加していった。
弁護士一五年目(四二才)の一九九七年の健康診断では六七・六キロに達していた。血液検査の数値は軒並み異常値を示している。さすがにこのまま増えていったらどうなるのか不安になり、食べ物に気を付けたり(とはいってもご飯の量を減らす程度)、就寝前に屈伸運動をするなどして、増加のペースは多少減り、二〇〇七年では六九・一キロつまり、一〇年で一・五キロという低成長に抑えた。抑えた、というよりはこの身長で太るべきところまで太ってしまった、肥満が定着した、というべきかもしれない。血液検査値は改善しないままで、特にγ-GPT、総コレステロール、トリグリセライドは正常値をはるかに上回る状態が続いていた。血圧も異常というほどではないがだんだん高くなる傾向が続いた。
そうするうちに、前述のように二〇一一年、五六才にして突然、内閣府(現総務省)の情報公開・個人情報保護審査会の常勤委員という公務員生活をすることになった。弁護士との執務環境の最大の違いは、一日中部屋にこもりきりで仕事をするということである。外出できるのは昼食時位である。当然、運動不足になる。しかもそこに勤める直前に階段で転んで膝を傷めており、運動はしにくい状態であった。「傷めた膝への負荷を減らすためには痩せる必要がある。」「痩せるためには運動する必要がある。」「太っているから傷んだ膝への負担が大きく運動できない」という古典的な「手負いのデブの負のスパイラル」に陥っていた。これは何とかしなければマズい、といよいよ焦ってきた。
2 ダイエット開始へ
一方、役所での健康診断は、それまで受けていた健診より詳しい内容であった。
そこで大腸ポリープが発見され、手術まですることになったりした。(一泊だけだが、三〇年ぶりの入院であり、説明・同意の手続きが丁寧になっていたことには驚いた。手術などの治療自体よりも説明とアンケート等への回答の方に時間がかかったくらいである。その辺のことは機会があれば書きたい。そもそもこっちの話題の方がこの紙面にはふさわしいのかもしれないが。)
血液検査の項目も多い。そして、メタボ該当者には事後対応が徹底している。
私はもちろんメタボ該当とされた。すると、健診後、「面接指導について」というタイトルの「内閣府大臣官房厚生管理官室保健係」からの通知が来て、健康管理医の面接指導を受けるように求められた。面接を受けると、その後、「区分指導通知書」というタイトルの「内閣官房・内閣府本府健康管理者内閣府大臣官房厚生管理官」からの行政文書が届いた。「府厚第325号」という発簡番号までついている。「あなたは以下の病名により、次のとおり指導区分が決定されましたので通知します。・・・療養に務めてください。」と書かれ、「肝機能障害D―2」「高脂血症D―1」「高尿酸血症D―2」などと書かれている。D区分は「平常の生活でよい」のであるが、それでも1、2のランクは医師にかかる必要があるという。
役所に命令されて「治療」するのは気に入らないが、メタボ対策の必要自体はすでに自覚していたところに念を押された感じで、この際何か手を打とうか、という気になった。医者にかかるのではなく、無料のメタボ相談を受けることでもよいということなのでそれを受けることにした。
内閣府共済組合から紹介されたメタボ相談は「ベネフィットワンヘルスケア」という会社がやっていて、連絡をするとまず面談ということになり、二〇一三年の一月九日に面談することとなった。現れた相談員は保健師の資格を持つという筋肉質の女性である。確かにこういう仕事は筋肉質でなきゃいけないだろうなあ、などと思っていると、私のデータを見て、こりゃいけません、ダイエットの必要がありますとメタボの弊害を改めて説明。ダイエットのやり方については細かい指示はなく、何キロ減量するかの目標を自分で決めて、摂取カロリー量を減らす方向と、運動で消費する方向の両面から、現実にできそうなことを、何でもいいので三つ挙げるようにと言われた。
まず現実的な目標として六か月で三キロ程度減量することを目指すことにした。実はこの時は正月太りで七一キロに達しており、三キロ減は「普通に太っている程度の状態に戻す」ことに過ぎずダイエットなどといえるものではなかったのだが。
そしてダイエットの実践計画として、
① 夕食後の間食はしない、間食用の菓子等を買って食べることはしない(つまり、ケーキ等をもらってしまった場合は仕方ないので昼間のうちに食べるということである)。
② 平日はこれまでより毎日二〇分位多く歩く。
③ 休日は一時間以上散歩する。
ということを約束した。
すると、右の三つの約束の実行状況と体重を毎日記録するよう求められ、.記入するための用紙を半年分渡された。そして毎月末にはその時点での体重を報告することになった。
こうしてメタボ相談を経てのダイエット計画はスタートした。
ここで読者は、「自己決定ダイエット」と言いながら、実際には役所の命令(と筋肉質の女性のプレッシャー)に屈服しただけではないか、と感じられるかもしれない。それを否定するつもりもないのだが、役所の命令だから何でも反対するというのも逆の意味で自己決定を否定することになる。要するにいろいろなタイミングが合って、強い決断ができたということである。
なお、これだけ健康管理が徹底しているならメタボの公務員などいなくなりそうだが、私のいた職場だけとっても、決してそうではなかった。私のようなよそ者よりも、生え抜きの公務員の方が当局の命令に対してもしたたか(?)なのである。
ともあれ、私については当初計画があまりに緩いものであったにもかかわらず、予想を超える成果を得られたのは、何点か当初の想定を超える実践や計画の修正があったからである。項を変えて述べる。
3 ダイエット計画の自律的発展.
⑴ ヘルスメーターの買い替え
実は体重を毎日記録すること自体に大きな効果があるのだが、体重の変化を正確に記入するためには、従来使っていた、針を読み取る方式のアナログ体重計では正確に測れない。しかも斜めに見ることで一キロ程度の誤差が生じうるので変化を把握できない。自分の都合の良いように読めてしまうのである。そこで一念発起して、デジタル表示で一〇〇グラム単位まで明示される体重計を購入した。相談員との面談の二日後の一月一一日のことである。これは抜群の効果を発揮した。
⑵ 散歩の充実
平日に二〇分多く歩くとしたのは、一駅分余計に歩く、あるいは昼食後に歩くということを想定したものだ。職場である審査会の事務局は最高裁のすぐ近く、永田町にある。そこで往路永田町駅の一つ手前の溜池山王駅で下車して歩くことを基本にして、だんだんといろいろなルートを開拓していった。例えば、議員会館裏手の道をだらだら上がっていくとか、赤坂見附駅まで歩いてから坂を上り衆参議長公邸前を過ぎるとか、その手前のプルデンシャルタワー脇の坂を上り日比谷高校の前を通るとか、溜池山王駅から構内通路で国会議事堂前駅まで行って、国会議事堂の裏と議員会館の間の道を抜けていくとかである。復路、逆ルートで一駅歩くこともあった。
昼食後は最高裁、国立劇場、半蔵門あたりを巡ったり、国会議事堂正面や憲政記念館及びその周りの公園を散策したりした。桜の時期には千鳥ヶ淵公園、イギリス大使館前などに花見がてら足を延ばした。ちなみに国立劇場の桜はピンクが強く艶っぽいが、隣の最高裁の桜は白くて清廉ではあるが冷たい感じがする。などと思いながら、日本の政治と司法の中枢を散策するのは楽しく、昼休みいっぱい歩きまわることも珍しくなかった。
雨降りや寒い日など外で歩きにくいときは室内を歩いた。執務室は個室で二〇坪近くあり、昼休みは扉を閉められるので、音を立てないようぐるぐる歩き回った。やや異常な行動ではあったが、要するに食後身体を動かすことが習慣になったのである。
休日は家にこもりがちであった。これを改め、必ず外出して一時間程度歩くようにした。これもだんだんにルートが開拓できて、自宅中心に東西南北4方向に散歩コースができた。三〇分くらい歩いた先に喫茶店やショッピングモールがあり、そこで一休みしてまた歩いて帰る、というルートである。これが休日の習慣になった。
散歩の習慣が確立できたのは、当時の仕事時間が規則的で、休日はきちんと休めるという、それまでの人生ではなかった生活環境にあったことが大きい。そこで弁護士に戻ってから維持できるかは大いに不安であったが、休日は休むように努め、これら健康的な習慣を維持できている。
⑶ 就寝前の軽運動
「三つの約束」には入っていないこととして、就寝前の軽運動がある。以前から、風呂上がりの就寝前の時間に、軽い運動をするようにしていたが、これを意識的に習慣づけるようにし、かつ、だんだん内容を充実させていった。もともとやっていたのは大腰筋を使うことによりダイエット効果があるということで、足を上下させる運動をしていた。これに横に足を持ち上げることなどを加え、寝そべっての腹筋運動を加え、さらにダンベル(三キロの軽いもの)を使った上肢の筋肉を刺激する運動を加え、それぞれの運動についてバリエーションを持たせている。実は筋肉を鍛えると筋肉がつくことになるので減量にはならないのだが、鍛える過程で炭水化物を消化することと、ダイエットにより筋肉が減ることを防ぐためには有益である。
注意を要するのは、私のようにもともとあまり運動をしたことがない人が無理をすると続かなくなるということで、実際、私は何度も運動のレベルを高めたために挫折してきた。この点、基礎体力のある人は何倍もできるので効果は大いに上がる。とにかく継続性を重視し、時間をかけて無理のない運動を少しずつ増やしていった。それでも現時点でこの運動にかける時間は二〇分以内で汗をかかない程度にとどめている。
就寝前に軽運動をすると、寝つきも大変よくなる。
⑷ 糖質制限ダイエットとの出会い
もう一つの、そして最大の計画修正は、食生活に関して糖質制限ダイエットの要素を導入したことである。いうまでもなく、簡単で効果絶大と、今日最も注目されているものである。しかしこれについては医学論争も含め、是非の議論が展開されている。糖質制限はこのダイエット論の中心課題といえる。そこでこれについては次回まとめて論ずることとしたい。(早速当初の執筆計画を変更することになるが、ご容赦を。)
NPO患者の権利オンブズマン
解散のご報告
福岡市 久保井 摂
(NPO法人元理事長)
一九九九年七月に福岡市で設立され、一八年間にわたって患者の自立支援活動を行ってきたNPO法人患者の権利オンブズマンは、二〇一七年五月一四日に開催された臨時総会で解散を決議し、今後は精算手続を進めていくこととなりました。この間の各方面からのご支援とご協力に心より感謝申し上げますとともに、ここに一八年の活動を振り返り、解散のご報告をさせていただきます。
この活動は、患者の権利法をつくる会の初代事務局長でもあった故池永満弁護士が、イギリスとオランダでの二年間にわたる留学から帰国して呼びかけ、立ちあげたものです。
その先駆けとなったのが、一九九五年の当会企画のWHO視察でした。その前年の一九九四年、WHOヨーロッパ会議は、オランダアムステルダムで「ヨーロッパにおける患者の権利の促進に関する宣言」を採択していました。当時の起草責任者であったピネさんを訪ね、患者の権利を欧州で促進するための「戦略」としてのこの宣言について学び、日本での翻訳出版の権利を得て、対訳パンフレットとして出版しました。
この宣言は、いま読み返しても全く古びておらず、示唆に富んだものですが、その中に患者の苦情申立権と、それを実効的なものにするための苦情を受け付け解決を促進する第三者機関についての規定がありました。
一方で二年間の留学を通じて、ヨーロッパには患者の苦情に耳を傾け、そこから得られる教訓を臨床現場にフィードバックすることによって医療の質を高める仕組みがあることを学んでいた池永さんは、矢継ぎ早に医療事故が報道されていた当時の状況に鑑み、同じ様な仕組みを日本でも確立させたいと考えて、患者の権利オンブズマンの設立を呼びかけたのです。
当会も呼びかけ団体として設立に関わり、マスコミからもたいへんな関心が寄せられ、設立前からニュース番組で特集が組まれ、設立集会には多くの方々が集いました。医療における患者の安全についての不安が募っていた時期でしたから、日本で初めての取り組みに大いなる期待が寄せられました。
患者の権利オンブズマンの活動は、すべて無償で賄われ、その背後には献身的なボランティアの存在がありました。設立前のボランティア募集の説明会や、公開で開催していた患者アドボカシー養成講座、専門家を呼んで市民向けに分かりやすく患者の権利を学ぶ「市民大学講座」など、さまざまな企画を通じて、それぞれに患者の権利に想いを寄せるボランティアが集まり、研鑽を重ねました。
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患者の権利オンブズマンの活動の中心は、患者や家族からの苦情相談ですが、苦情の解決を促進するために、相談者にカルテの開示請求を助言したり、相談の際に患者が持参したカルテを検討する「記録検討支援」、医師らに説明を求める場に市民ボランティアが同行する「同行支援」といった支援活動も行いました。特に死亡事例について、遺族が死亡原因を究明するための解剖を望むものの、相手方やその関係する医療機関では解剖されたくないという場合に、九州大学医学部法医学教室で解剖を行う「承諾解剖」という新たな途を切り開いたことは、特筆すべきことでした。
同行支援によっても解決されない苦情については、相談者からの苦情調査請求を受け、オンブズマン会議において調査相当と判断した事案については、調査小委員会を立ち上げ、つぶさに調査し、速やかに報告書をまとめて、必要があれば改善のための勧告を行い、相談者と相手方の双方に手渡し、直接読み上げるという調査点検勧告事業は、後に開始された診療関連死調査分析モデル事業の先駆けとも言えるものでした。この一八年間に二〇件の調査報告書をまとめ、いずれも勧告集として出版しています(ホームページにもPDF版を掲載していましたが、今は患者の権利オンブズマン東京のサイトにありますので、そちらをご参照下さい)。
設立当時は、まだまだカルテ開示の実践も進んでいませんでしたが、この一八年の間にとりわけカルテ開示については大きく情勢が変わり、最近は相談者の多くが初回相談時に既に医療記録を入手し、持参するようになっていました。
これまでに受け付けた相談は六五〇〇件以上、設立後に各都道府県等に設置された医療安全支援センターの相談員から紹介されて相談に来られた方も多数おられました。
しかし、五年前の二〇一二年一二月、設立者であった池永満さんが亡くなり、大きな柱をなくしたNPO法人は、不肖ながら私が理事長を引き継ぎ、池永さんの熱い思いを後世にと願う熱心なボランティアの皆さんの力を得て活動を続けてきましたが、継続的に活動を担うためのボランティアの確保や一切を会費収入と寄付金によって賄うための寄付金の確保が困難になってしまい、ついに一八年間の歴史を閉じることになりました。
解散を目前に控えた四月二三日、福岡市内で解散報告集会が行われました。設立時から深く関わってこられた副理事長の平野亙さんからの一八年間の活動を振り返る基調報告を踏まえ、ずっと市民相談員、そしてオンブズマン会議メンバーとして活動された福山美音子さんが相談や同行支援の経験から得たものを、オンブズマンの協力医療機関第一号であり、池永満さんの高校時代からの親友でもある有吉病院の有吉通泰さんが臨床医としての思いを、オンブズマン会議議長である精神科医の赤木健利さんは活動に関わってきての所感を、そしてこれからも活動を続けていく患者の権利オンブズマン東京を代表して、弁護士の谷直樹さんから東京での実践とこれからの抱負を、それぞれ述べられました。
その後、会場に集った関わりの深い皆さんから次々に発言をいただき、一八年の活動の意義をみんなで振り返った集会となりました。
解散決議を行った臨時総会の終了後、長年相談活動の場であった部屋で、特に貢献いただいたボランティアのみなさんをねぎらい、設立やその後の活動を報じたニュース番組や、一〇周年記念集会の際に上映したDVDを見ながら、あれこれを語り、前向きなとてもよい総括ができたと思っています。
NPO法人患者の権利オンブズマンは幕を閉じますが、その目指した患者の権利の確立までの途はまだまだ半ばです。これからもそれぞれが、当会の活動に参加するなどして、NPO法人の理念を実現できる社会を構築できるよう、働きかけていきます。
この一八年間、見守っていただいた皆さま、改めて心よりのお礼を申し上げます。