権利法NEWS

市民活動の主体つべこべ

小沢木理

 

はじめに

「患者の権利法をつくる会は、『医療における患者の諸権利を定める法律案』(仮称)を起草し、その制定にむけ提唱および立法要請を行うとともに、医療の諸分野における患者の権利の確立と法制化をすすめるため必要な諸活動を行うことを目的とします」。

今更ではありますがつくる会の会則の最初にこのように書かれています。

当会はここで謳われている諸活動の一環として、ここ数年は、当会と志を同じくする患者の声協議会、医療政策実践コミュニティー(H-PAC)医療基本法制定チームと三団体での活動に主力を注ぐようになってきました。活動の輪を広げ、連帯していくということは運動体の幹を太くするのに非常に重要です。これまでもそうでしたが今後も諸活動に向けて三団体による協議会が隔月で持たれていくことになりそうです。

この状況を多いに歓迎する一方で、私たちはもう独自にやることはなくなったのかな?と、自分たち(当会)の立ち位置(居場所)について今一度確認しておきたいという思いが生まれてきます。世話人会議に出席できる人は、会員の中のごく一部ですのでほかの方たちの声を聞くことが出来ませんが、同じような感覚を持たれるかたもおられるかもしれませんし、逆に全く気にならないという方もおられるでしょう。いずれにせよ今後は、企画によってはさらに複数の団体と連帯していくことがあるとしても、そのときも前述の三団体がその中心となって活動していくことになるのではないかと思われます。そこでいま、市民活動の主体について考えてみることは無意味ではないと思い、しばし立ち止まって考えてみたいと思います。

 

市民運動のかたち

前回の世話人会で、当会創立に中心的に関わったおひとりである鈴木利廣さんは、会が発足するまでの歴史的経緯を具体的にさまざまな経過に触れながら説明されました。そして、「そもそも、市民運動はその時々で集まった人たちがワイワイガヤガヤいって皆の発想でやっていくもので、広がったり縮んだりしてきた。中と外とかに区別を付けるというのではなく、全体としてのコンセンサスが重要なのだ。やりたいことを発信して、この指止まれ方式が理想ではないか」と。

まさに市民運動の姿を言い当てています。一般的に、市民運動は規模も時には運動形態も変容していくというのはよくあることでむしろそれが自然であるとも言えそうです。それは具体的な運動の方法論などで選択の違いが出てきたりするからです。

また、複数の人が共通の目的を持って組織をつくった場合でも活動を担う人たちが交代することで、初期の目的が時間経過でずれていくこともあります。流動性、柔軟性は組織の形態だけではなく活動目的までも伴っていくこともあり得ます。

とすると、市民活動の主体は、その時期に関わっていた人たちにあるのであって、設立趣旨や活動目的ですら最終的にはその人たちに委ねられるということにもなります。必ずしも組織の設立当初の目的の遂行が課されている市民団体とまでは言えない場合もでてきます。

 

二六年目の使命

話を戻します。今後実際にどのような展開になるかは分かりませんが、この先も当会の活動が三団体での活動にシフトしていくことが主流になるとしたら、当会でまとめた「医療基本法要綱案」の活用の機会が無くなっていきます。そこでの活動主体は三団体ですから、あくまでもこの三団体の共通項である「五団体共同骨子」(当初の三団体共同骨子が二団体増えて五団体に拡大)だけの使用が許されることになります。当会が独自に活動する機会があれば別ですが、その機会は恐らく激減するのではないかと思われます。というのは、限られた人材と制約ある時間という条件下では独自の活動を行なう余裕が無いということと、アプローチする対象が国会議員や日本医師会など結局はほかの二団体と共通であるため、自ずと三団体での共同活動が効果的であり優先されるからです。

単独での活動より複数の団体と共同骨子を用いての活動をするほうが当然対外的には訴求力があります。活動のための「方法論」としてそのことは充分に理解しているものの、では時間をかけて練り上げた当会の存在意義(心臓部分)でもある『医療基本法要項案』は、あくまでも内部向けのシミュレーション教材で終ってしまうのかという気がしてきます。

実際、ふだん対外的に用いられる五団体共同骨子だけではわたしたちが伝えたい重要な部分までが伝えられません。当会のめざす目的のためには当会の基本法要綱案を用いての補完作業が必要です。しかし三団体の活動では、それを伴って活動できないというジレンマがつきまといます。全く独自の活動が求められますが、それは体力的にできない。でもほんとうにそこで止まっているしかないのでしょうか。

 

最終的に法案は厚生労働委員会など役人の手の内にあるとしても、だからといってやがて創立二六年を迎えようという当会のこれまでの活動が集積された医療基本法要項案が、棚に鎮座しているだけでいいのかという思いです。

ほかの二団体はその団体独自の法案を示していて私たちのそれと重なるものもありますが、それらでは埋められてない部分があります。ほんとうはもっと当会の要綱案を積極的にいろいろな機会に活用すべきだと思います。しかしこの先当会で独自の活動は期待できそうもないとなると、やはり活用頻度は減り人目に触れる機会の無い展示物になりかねません。それとも潔く過去帳のように懐かしむようにすべきなのでしょうか。

医療基本法要項案の活用問題は当会の主体確認の一例であり、そもそも患者の権利法をつくる会のアイデンティティーと今後の活動の主流になると思われる三団体での活動との折り合いをどうするか、その落としどころが見つかっていません。

自宅に家財道具を残したまま、友人宅にあそびに行っているのではなく別の場所で友人たちとシェアハウスしている感じに似ています。

きっと、当会独自の活動が分母にあってそのうえに有効な活動方法としての三団体での活動が進められるのであれば自分の中での整合性がとれるのかもしれません。分母、それは組織の主体を意味します。いまは、分母でなく分子のほうが大きくなっている感じです。分母探しなど要らないとなれば、まさに分母は要らないことになります。

今の状態を「こだわる必要なし」と考える派は、「そもそも活動の目的は、主体云々を越えて基本法の法制化を達成させることにあるのだから」ということになろうかと思います。それは成り立つ主張です。ただ、仮に当会の実質的活動がゼロ(或はゼロに近い状態)になることを容認したとして、最終的に成立する法律に当会の主張が反映されるのであればまさに当会が形骸化したとしても当会のありかたにこだわる必要はなくなります。

しかしながら、この際時間の長さはともかくとしても、二六年もかけて形成してきた当会の患者の権利を守るための法案が反映される保障は無いからこそ当会の存在や活動のあり方が重要なのではないでしょうか。

将来的には会の存続が不要になる日を誰もが望んでいると思いますが、今、もうその時なのでしょうか。

 

しなやかさ

市民運動の流動性、柔軟性は重要な要素と捉えつつ、個人としてではなく市民団体という組織を結成した場合にはその主体のありようは明確になっていないとならないと思います。どのような展望があっていまはそのどの位置にいてどういう状態であるかそれは、冬眠でも休憩でも静観期間でもよく、まずは会員にたいして明確に当会の立ち位置を説明できればいいのではないかというところに私の考えが落ち着きました。独自の活動が、(仮にその期間が不明であっても)これまでのように出来なくなり、活動形態も変わっていくとしたら、それはやはりどうでもいいことではないはずで、会員に対しての説明責任が会の運営に関与している世話人会にあると思います。

市民運動では、個人が関与する場合によく「ゆるやかに」が合い言葉のようになっていることがあります。そのあり方は共有できるのですが、だからといって活動組織としての選択や判断がぶれて良いということではないはずです。 

活動方法で何か未経験な提案がなされると、これまでごく一部の人が担ってきた負担をさらに増やすことになるのではないかと懸念されがちでしたが、組織の姿勢において求められるものには、限られた人材や制約の中でもできることです。それは視点を変えて選択するということだけのことです。目的や方向性は変わらないまま、それまでの固定観念で選択していた嗜好(志向・指向)あるいは視点を変えるだけで停留状態にあるものに風を通すことができるのです。比喩的に言えば甘いものといったら、〝砂糖〟あるのみといった固定観念を一旦置いて、まんじゅうやチョコレートなどよりその場にふさわしい甘いものはいろいろあるということに気づけるかどうかだけのことです。活動にも柔軟な選択肢があるのです。

視点の柔軟性でいえばひとつには 〝活動のムーブメントを拡大させるために必要なことは何か〟については、多くの様々な立場の人からの声を直接収集することでヒントが見えてくることがあります。これまでに接点があった人たちが、当事者としての意識を持てるようになり自発的に動き出すためのきっかけづくりをすることが重要と考えるかどうかです。

一見労多くして成果の少ないと思われがちなこういった作業への取組みを、ほんとうは常に意識して進める必要があると思います。こういった視点に力点が置かれていないために、これまでも多くの場合でそうでしたが、少数の人たちの活動によって進めその結果得られた大きな果実(法律が出来たとしても)は分け合う対象が小さくなりがちです。得た果実、それも結局は少数の市民活動者による一般市民に到達しきれていない、一般市民に活かされない上意下達情報でしかなくなるからです。

 

三団体での活動を基軸としつつも、当会の使命は終っても薄れてもいないはずで、当会作成の医療基本法案を実際の法案に反映させていくためにも、その本来の目的や役割を積極的に押し出していくのはむしろこれからだと思います。

だからといって活動量を増やすのではなく、限られた制約の中であっても主体的、独自的な活動をすることは現実的に可能だと思います。そのヒントは視点の変換が出来るかどうかにあります。

本宅をどうするのかはやはりどうでもいいことという説明はできないでしょう。

ただ、当会世話人会では独自に発信する活動をしないと最終的に決めたわけではありません。誤解のないように断っておかねばなりません。

けんりほうnewsには明るい報告のほうがふさわしいでしょうが、活動の土台である組織(主体)のありようについて言及し共に考えることは本質的な問題だと思います。当会の行先をどうするのか、さらにしなやかな対応が求められそうです。みなさまからのご感想、ご意見いただけたら嬉しいです。

 

  

自己決定ダイエット(第一回)

 神奈川 森田 明(弁護士)   

 

ダイエットをした。

成功、といってよいと思われる。そこでその経験を書くことにした。

本紙にダイエットの話を書くことが適当か疑問もあろうが、健康をめぐる大きな問題であること、医療関係者もさまざまに関与していること、「自己決定」が重要な分野であることなどからあながち無縁ではないと思う。ただし、あくまで当面の会の主たるテーマとかかわりは少ないことは認識しているので、本紙が会員の多様な交流をも目的とする媒体であるとの理解の上で、かつ、埋め草記事という位置づけでなら許されると考えた。まあ、当会の趣旨から外れないよう注意して書き進めることとしたい。連載は数回にわたる予定だが、所詮埋め草であるから記事の足りないときに少しずつ掲載して頂くことになろう。

 

1 私のダイエットの経過

ダイエットを開始した二〇一三年一月初めの時点(当時五七歳)で私の体重は七一キログラムに達していた。ちなみに身長は一五六センチメートルで典型的なチビデブである。チビデブ自体は小学校高学年からであり、これまで何度もダイエットを試みては失敗してきた。詳しい事情は後で書くが、とにかく今回は腰を据えてダイエットをしようと決意した。以後の推移は次のとおりである。

 二〇一三年一月末  六九・〇㎏

      二月末  六六・七

      三月末  六四・二

      四月末  六二・二

      五月末  六〇・八

      六月末  五九・六

つまりここまでの半年間、おおむね月二キロ減っていたことになる。このあとはややペースが落ちる。隔月で記載する。

      八月末  五八・九

     一〇月末  五六・四

     一二月末  五七・三

 二〇一四年二月末  五五・五

開始後約一年で一五・五キロの減である。当初の想定以上の結果が出たのと、これ以上落とすと身体に無理がきそうであることから、以後は減量した体重を維持することを目標とした。その後の経過を半年ごとに示す。

 二〇一四年六月末  五四・九

     一二月末  五五・五

 二〇一五年六月末  五五・〇

     一二月末  五五・三

 二〇一六年六月末  五四・九

     一二月末  五五・二

五五キロを軸としてほぼ一キロの範囲内で推移していることがわかる。この基準日以外を見ても、最大で五六・三キロ。最低で五四・三キロであり、大きな上下はない。

どのようなダイエットをしたのかについては後に詳しく述べるが、簡単に言えば、「ゆるい糖質制限食」と「散歩を中心とする軽運動」をし、毎日体重を図って記録をつけることを地道に続けるというものである。

ちなみに体調は良好で、この間風邪もひいていない。

 

2 ダイエットの意味と必要性判断

 ここで改めて、本稿で言うダイエットとは何かを明らかにしておきたい。これはあくまで私のイメージするダイエット像である。

① まず、病気で食欲がないとか、食べても体重が増えない状態での減量はダイエットには当たらない。

② ダイエット開始時の体重にもよるが、少なくとも一〇ないし二〇キロの減量をすること。二、三キロ体重が減ったというのはダイエットというほどのことではない。その程度で喜ぶ人には、そもそもダイエットは必要ないのである。

③ 一〇キロ減らしたけど、半年たったら戻っちゃった、あるいは一五キロ増えちゃったという場合、いわゆるリバウンドであるが、これはダイエットをやりかけたにすぎず、成功したとは言えない。つまり、ダイエットは「減量」プラス「維持」で成り立つ。「維持」したといえるには少なくとも二年の経過は必要だろう。

私は一年で七一キロの体重を一五キロ減量し(約二割減)、三年間にわたり維持し、病気でもないことから「成功」と評価した次第である。

なお、私はそれなりの必然性があって六〇歳を前にダイエットに本気で取り組んだのであるが、右の意味でのダイエットが必要な人はそれほど多くないと思う。太っているわけでもないのに若い女性がダイエットすることはいかなる意味からも支持できないし、男女問わず多少太っていても四〇代前ならほとんど必要ないと思う。

 

3 ダイエットは国策?

ところで、このニュースの二四五号に書いたように、私は、二〇一一年一〇月から二〇一四年九月末まで三年間、弁護士をやめて内閣府情報公開・個人情報保護審査会の常勤委員をしていた。(そういえば昨年この当時のことを書いた本を出版したので末尾で紹介させていただく。)ダイエットを始めたのは審査会に勤めていた時期であった。役所の中にいて分かったのだが、実は「メタボ対策」の名目で国が個々の公務員の健康管理に口出しする傾向が進みつつある。私の場合にはもともと必要を感じていたところに渡りに船でダイエット成功につながったのであるが、こうした傾向がマイナンバー制度にからめて国民一般に広げられようとしていることには注意を要すると思う。

ダイエットが必要な状況にあるとしても、するかどうかは個人の決断に委ねられるべきで、他人から、ましてや国から指図されてすることではない。また、この連載で最も伝えたいのは、ダイエットの方法論は各人が自分の条件に合ったものを主体的に選択すべきであって、何か絶対に正しいものがあるというわけではないということである。具体的なことは次回以降詳しく述べる。

なんだか後回しにすることが多くなった。この通り行くかどうかはわからないが、今後の掲載予定をあげておく。

・第2回 私の方法論〜どう選んだか

  この時点でのダイエットの必要性、私のダイエット計画とその変遷、あわせてこれまでの失敗の回顧

・第3回 糖質制限ダイエットを巡る論議

  効果とリスク、人類の歴史から見た糖質制限の是非、どのような視点で選択するか

・第4回 私の実践の実情

  毎日何をどう食べるか(毎朝のサラダメニュー、菓子類の誘惑との戦いと和解、宴会の連続をどう乗り切るか等)、運動音痴の身でどんな運動をしているか、など具体的取組の紹介

 

*本の紹介

「論点解説 情報公開・個人情報保護審査会答申例」

 森田明著(日本評論社、税別五五〇〇円)

 著者が同審査会(開示請求をして拒否された場合の救済機関)の常勤委員をした経験から、審査会の実情、答申から見る情報公開制度等の運用の問題点を指摘したもの。医療分野では、医師に対する懲戒処分の経過に係る文書の開示請求の事例や、事故調査報告書の開示請求例などを紹介。情報公開の実務にかかわっている人を念頭に置いたもので難解なところもあり、高価でもあるのでお気軽に買ってというのは気が引けるのですが、この分野に関心のある方にはぜひお読みいただきたいものです。(どさくさに紛れての自己宣伝ですみません。)

 

書評

「手話を生きる」

〜少数言語が多数派日本語と出会うところで〜

斉藤道雄著(みすず書房)

 

 みなさんは、「手話」のことをどの程度知っているでしょうか。私は、この本を読んで、実は手話の何たるかについて、全く知らなかったということを思い知らされました。

 著書は、長年テレビの報道番組の制作に取り組んできたジャーナリスト。その過程で手話に「出会い」、アメリカで行われている手話教育を目の当たりにしたことから、手話の世界にのめり込んでいきます。

 手話というと手話教室などで教えられる手の動きを思い浮かべます。ひとつひとつの動作に日本語の訳がついています。だから、当然「手話」というのは日本語を手の動きで「翻訳」したものだと思い込んでいました。

 けれど、生まれながらにして耳が聞こえない人にとっては、「日本語」というものは意識して学ばなければならない「外国語」にほかなりません。ろう者の両親の間にろうの子が生まれた家族をデフ・ファミリーというそうですが、そのデフ・ファミリーでは、全員が耳で聞くことができないので、当然ながら手話のみが共通の言語となります。

 ろう者同士が会話するために自然と発生したものが「自然手話」、それに対して、聴こえる人との間で会話するためにつくられたのはその人の使う言語「対応手話」、日本であれば、前者が「日本手話」、後者を「日本語対応手話」というそうです。

〜日本のろう学校では手話は原則として禁止されている〜

 全くもって意外な事実で、本当にびっくりしました。

 確かに、ろう学校では耳が聞こえずとも口で日本語を発音することを教えられています。それはろう学校というものが設立されて、健常者と同じように日本語を習得することこそが至上命題とされたからでした。

 けれど、生来聴こえない子達にとって、手話を禁止されて日本語でしゃべることを強制されるとは、いったいどんな体験であるのか。著者はその問題を問います。

 それは、たった一人、見知らぬ外国に置き去りにされて、ほとんど理解できない言語をわかるようになれと強制されているのと同じことなのではないでしょうか。

 ろう者の教育をめぐる状況は多くの国で共通しているようです。そして聴こえる者の言語を押しつけられる教育を受けさせられたろう者達の学習のレベルはおおむね八歳程度で止まってしまう、というのです。

 八歳程度の言語しか身に付けることができないとすれば、それはただ言語のレベルのみにとどまらず、大きく人生が損なわれてしまうことを意味します。

 著者は、ろう者達の自然手話による教育を実践しようという取り組みに深く携わり、日本で唯一日本手話を教育に取り入れている明晴学園で二〇〇八年の設立時より校長を務め、現在は理事長の役職にあります。ですから、本書には明晴学園での授業風景や児童生徒達のインタビューが各所にちりばめられています。生き生きとしたやりとりのさまは、まさに子どもたちが大切にされ、のびのびと学習していることを知らせてくれます。

 冒頭、「聞こえる」人の中には途中で「ろう」になる人もいると知って、「まさか私たちが〝聴〟になることはないよね」とおびえる少女の姿が描かれます。〝ろう〟が〝聴〟になることはないと知って、心底ほっとし、「ろうがいい」という子どもたち。

 タイトルの「手話を生きる」も学園の中学を卒業するにあたり、ある生徒が後輩に伝えたいメッセージとして語った言葉です。

 圧倒的マジョリティである〝聴〟である私たちは、手話の、そして〝ろう〟の人たちの世界のゆたかさを、知らないという意味では、どこか精神的なゆたかさに欠けているといってもいいのかもしれません。

 障害のことを学ぶ、というよりも根源的な価値観を大きく揺さぶられる一冊です。

(久保井摂)