事務局長 小林洋二
6月7日の朝刊は、政府が、保険診療と保険外の自由診療を併用する「混合診療」を拡大し、患者の希望を重視して混合診療を認める新たな仕組みをつくることを決めたと報じられています。
日本の医療制度の下では、公的医療保険の適用が認められる診療(保険診療)と、認められない診療(保険外診療)が分けられています。その保険診療と保険外診療を併用することを、「混合診療」といいます。
この「混合診療」が行われた場合、原則として、その保険外診療部分のみならず、保険診療部分も含めて、保険給付を行うことができないというのが健在の健康保険法の解釈です。これを「混合診療保険給付外の原則」あるいは端的に「混合診療の禁止」といいます。全体が保険給付外ということは、基本的には全て患者の自己負担ということになります。
かつて、このような健康保険法の解釈が認められるか否かが争われた裁判がありました。保険診療であるインターフェロン療法に加えて保険外診療である活性自己リンパ球移入療法を受けている患者が、インターフェロン療法について健康保険法に基づく療養の給付を受けることができる権利の確認を求めた裁判です。一審東京地裁判決は、健康保険法その他の関連法規を検討しても、本来ならば保険診療となるべき診療が、保険外診療を併用することにより保険で受けられなくなる根拠は見いだせないとして原告の請求を認めました(東京地裁平成一九年一一月七日)。しかし、控訴審は、療養担当規則の「保険医は、特殊な療法又は新しい療法等については、厚生大臣の定めるもののほか行つてはならない」等の定めや、昭和30年に歯科において混合診療を一部認めた際、高額の自己負担分の支払を強いられるケースが相次ぎ社会問題化したこと、同じく差額ベッド代についても大きな問題になったこと、そのような問題を踏まえて特定療養費制度が創設されたこと等の経過を踏まえ、健康保険法及び療養担当規則の解釈として混合診療保険給付外の原則を認めて、一審判決を取消し、被控訴人の請求を棄却しました(東京高裁平成二一年九月二九日判決)。最高裁もこの高裁の判断を支持し、上告を棄却しています(最高裁第三小法廷平成二三年一〇月二五日判決)。結論は五名の裁判官の全員一致のようですが、三名の裁判官が補足意見を、一名が意見を書いており、法律解釈としてはかなり難しい部分を含む問題といえます。
さて、特定療養費制度の創設にはじまる混合診療保険給付外の原則の例外は、いくつかの変遷を経て、現在は、評価療養と選定療養の二種類に整理されています。評価療養というのは、保険診療に導入すべきか否かの評価を行うものであり、いわゆる先進医療といったものがこれにあたります。選定療養というのは、将来的にも保険が適用されることを前提としないものであり、いわゆる差額ベッド代がその代表的なものです。
今回の「混合診療拡大」は、「混合診療保険外給付の原則」の例外が、現行制度よりも拡大されることを意味しています。その内容はまだはっきりしませんが、新聞報道によれば、患者の申出を受けた医療機関が国に申請し、治療の有効性や安全性を専門家が合議で確認するという制度で、海外で認められているが国内で未承認の医薬品などを使う混合診療を実施する場合、現在は審査に平均六〜七ヶ月を要しているところ、新しい制度では審査期間が大幅に短縮され、患者が混合診療を受けられる病院や診療所も全国各地で大幅に増える可能性がある、とのことです。
この「混合診療の拡大」を、私たちはどう捉えればいいのでしょうか。
個別のケースについて見る限り、「混合診療の拡大」は「患者の権利の前進」であるようにみえます。インターフェロンだけであれば保険診療で受けられるのに、活性自己リンパ球移入療法を併用すれば、インターフェロンも保険外になってしまう、そのような経済的負担には耐えられない、結局は自分の希望する活性自己リンパ球移入療法を断念せざるをえない、そういったことを頭に浮かべれば、混合診療の拡大、あるいは、さらに進んで混合診療の全面解禁こそ、患者の権利の実現に資するのだという見解もありそうです。
しかし、現実には、そう簡単なものではありません。
日本の国民皆保険制度は、社会保障として必要十分な医療を公的保険診療として確保することを建前としています。多くの場合、保険外診療とされているものには、保険外診療となっている理由があるのです。例えば、「海外で認められているが国内で未承認の医薬品」が存在するとして、それは単に日本での承認手続が遅れているという理由によることもあるでしょうし、あるいは、日本人に対する安全性が確認されていないという理由もあり得ます。裁判で問題になったのは、活性自己リンパ球移入療法の中でもLAK療法というものですが、これはいったん高度先進医療(つまり「評価療養」として混合診療保険給付外の原則の例外)として実施されていたものの、有効性が明らかではないとして高度先進医療から外れたものでした。もちろん、有効性が明らかではないだけではなく、危険性のみ大きいギャンブルのような「保険外診療」もあるはずです。
患者が希望する「保険外診療」には、このようなさまざまなレベルのものが含まれることになるでしょう。その有効性や安全性を、それほど迅速に審理することが可能なのか、そのような方法でほんとうに医療の安全性は確保できるのか、という問題があります。
これに対しては、患者がその治療を希望するのに、危険だといって許さないのはパターナリズムではないかという意見もあり得ます。しかし、医師対患者といった個別の診療関係としてではなく、公的保険診療がどうあるべきかと考えた場合、その安全性に対する公的チェックを緩めることは、大局的にみて患者の権利の前進とはいえないのではないでしょうか。
もうひとつの大きな問題は、このような形で混合診療が拡大した場合、結局は保険診療の空洞化に繋がる可能性が大きいということです。
先ほど述べたとおり、日本の国民皆保険制度は、社会保障として必要十分な医療を公的保険診療として確保することを建前としています。だからこそ、新しい医療技術が出現してきた場合、それを先進医療、高度医療として評価療養の対象とし、保険診療に導入するかどうかを検討するという仕組みになっています。しかし、その枠組みが外れて、患者の希望するさまざまな保険外診療が五月雨式に行われるとなれば、それらの全てについて保険診療への導入を検討することは無理であり、多くの「保険外診療」は、将来的にも「保険外診療」であることを前提として行われるようになるのではないかと予想されます。
この場合、併用される保険診療の部分については三割負担で受けられるというのが「混合診療拡大」のメリットなのですが、その代わり、保険外診療部分については全額患者負担の状態が続くことになります。
これをカバーするのは、民間の医療保険です。
実は、「混合診療の拡大、解禁」を一貫して主張し続けてきたのは、患者でも、医師でもなく、平成13年、小泉内閣の下に設置された規制改革会議でした。この審議会は2010年3月末でいったん廃止されましたが、第二次安倍内閣の下で復活し、この5月28日に出した提言が、この「混合診療の拡大」なのです。
この規制改革会議の基本的なスタンスは、公的な規制を緩和することによって「経済を活性化」するところにあります。例えば、労働法制などについていえば、正規労働者の解雇を厳しく制限することは、企業が正規雇用を躊躇わせ、非正規雇用を増やすことになるから解雇規制を緩和すべきだ、最低賃金を引きあげることはその賃金に見合う生産性を発揮できない労働者の失業をもたらすから据え置くべきだ、ということになります。この会議が主張する「混合診療の緩和」の狙いは、公的医療保険の領域を限定し、民間保険の市場を拡大するところにあるのではないか、と考えざるをえません。
わたしたちの医療基本法要綱案III章1項は、「国及び地方公共団体は、国民及び地域住民が、経済的負担能力にかかわりなく最善かつ安全な医療を受けることができるように、また、医療機関及び医療従事者が最善かつ安全な医療を提供しうるように、医療保障制度を整備しなければならない」と謳っています。「混合診療の緩和」が、このような国の責務の後退に繋がらないよう、今後の議論を注意深く見守る必要があります。