小沢 木理
「医療基本法」ができたとしても、今まで権利法をつくる会が提案してきた『要綱案』のようなものが確立するわけでないということは重々分かりました。当会の『要綱案』はわたしたちの長年の切実な願いが詰まったものですので、正直気落ちする側面は否めませんが、基本法は医療の骨格のようなものでそれ自体は不可欠で優先される法律であることも理解できました。
しかし市民にとって、「医療基本法」ができると何が変わるのか、端的に語れることばが今一見つかっていません。
患者の責務の独り歩き
ところで、当会をはじめ他団体が提案する「医療基本法」には、〝患者の責務(または義務)〟ということについて触れています。医療者だけでなく患者にも責務があるはずという考え方です。当会世話人会案では第2章(患者の権利及び責務)とあります。この患者の責務について世話人会でも具体的な責務の性格や範囲を想定する議論をしました。
患者に対して「責務」を規定すること自体はいいのだけれど、その「責務」が独り歩きすることをわたしはとても懸念しました。
〝患者の責務〟は患者の権利がしっかり保証されていることが前提です。
実際には、世話人会案では患者の権利として以下のものを挙げています。
1 個人の尊重
2 自己情報に関する権利
3 知る権利
4 インフォームド・コンセント
5 不当な拘束などの虐待を受けない権利
6 臨床試験や特殊な医療における権利
7 医療被害の救済を受ける権利
8 苦情の解決を求める権利
これらの諸権利が保証された上で患者の責務が求められるものです。そんなこと一見当たり前のようですが、この前提が不十分なまま、〝患者の責務〟が都合の良い解釈で用いられはしないかと不安を感じています。
世話人案には、責務の前の位置に権利についてきちんと書いてあるのだからそれで不安は解決されるはずと言われそうです。しかし実際の医療環境では法律を超えて現場の実権力は絶対的です。法律は無視され、機能不全に陥りがちです。
世話人案では、〝患者の責務〟について、『患者は、医療従事者と協力して、最善、安全かつ効率的な医療が実現するよう努めるものとする。』と記載しています。
基本法の性格から詳細を書かないとするも、この抽象的でいかようにも解釈可能にとれる文章ですので、この部分だけが独り歩きするのではないかという思いを禁じ得ません。
提示された医療が唯一で、〝安全かつ効率的な〟医療かどうか分かりませんし、医療従事者の診断や治療法ひいては人格的に信頼できるかについては、患者自身が最終的に判断して決断するものです。つまりはインフォームド・コンセント原則を経た上での〝医療者と協力して最善、安全かつ効率的な医療が実現するよう努める〟のです。
今、医療そのもののありかたや診断や治療方法についても医療者間でも見解が大きく分かれているものもあります。患者側からすれば選択肢はいろいろあることになります。そういう実態を踏まえても、国や自治体、医療従事者の方針や決定に従順に患者は協力して努力しなければならないということではないはずです。提示された方針に従わないのは、患者の責務を果たしていない我が儘な患者だと単純に判断してはならないということです。
患者が理解し納得できる内容であれば医療従事者と協力してより望ましい医療の実現に努力することは患者の責務というより、むしろ患者の権利ですらあります。患者本人が必要と納得したにもかかわらず、薬を中断したりすべきことをさぼったりすることは、患者の務めとして問題になるかもしれません。しかし一方で、そもそも本当に必要ではなかった薬(危ない薬もあります)を処方されて、その薬を飲まずに処分してしまったという患者は私も含めて多く存在するということも視野にいれて考える必要があります。予防接種も検診でも同様な問題が存在しています。
つまり、〝医療者と協力して最善、安全かつ効率的な医療が実現するよう努める〟とは、非常にたくさんの問題を含んだ規定なのです。しかし、「医療基本法」はそこまで言及しません。
そこで「医療基本法」を考える上で重要だと思うことは、ふたつあります。
ひとつは、そもそも医療は流動的な部分があり、医師は絶対ではないということです。
このことは医療を否定し、医療者を軽視していることとは違います。あたりまえの事実として共有できることだと思います。そういう前提の上で、〝医療者と患者が協力して最善、安全かつ効率的な医療が実現するよう努める〟のだと思います。
そしてもうひとつは、患者の権利として明確に「自己決定権」という項目を掲げることだと思います。これらふたつのことは、双極的関係にあるのだと思います。
「自己決定権」は権利の総括
現在の世話人案では「自己決定権」という標記が、[患者の権利及び責務]のところで、〝インフォームド・コンセント(自己決定権)〟としていますが、どうもこの標記は私には消化不良です。そもそもインフォームド・コンセントという言葉自体の理解が私を含め、一般に正しく浸透されていません。〝インフォームド・コンセント=自己決定権〟と言い切れるのかが未消化なままです。
人権啓発用語辞典では、「インフォームド・コンセント(I.C)は、患者個人の権利と医師の義務という見地からみた法的概念」とあり、エイズ関連用語集ではI.Cを、「医療者側から検査や治療について十分な説明が行なわれ、患者側も納得した上で同意する、あるいは拒否するというプロセス。患者の知る権利を元にした自己決定権の実施である。」という説明をしています。
つまりこの説明では、I.Cは自己決定をするプロセスであり実施であると説明しています。もし、この説明が間違いでないとしたら、 〝I.C=自己決定権〟と言い切るのは厳密には正確ではないのではないでしょうか。むしろI.Cとは、自己決定権を実施するためのプロセス、自己決定権を実効させるための行為(手続き)とは言えないでしょうか。
仮にこの説明がI.Cの本来の意味に近いものだとしたら、やはり患者の「自己決定権」という項目が前面に(あるいは独立して)掲げられるべきだと考えます。
そして、患者の権利の総括として明確に「自己決定権」が項目に掲げられた場合、そのプロセスであるI.Cも必須になり、「患者の責務」が独り歩きして患者が望まない思いをしないで済むようになるのではないかと思います。
I.Cについては解釈もまちまちなまま使われている問題もありますが、重要な概念でありながらまだまだ一般には意味を理解している人は少ないのが現状です。普及定着のためには用語解釈以外にも用い方にさらに丁寧な検討と解説が必要ではないかと思います。
「自己決定権」という用語が明確に示されることで、「患者の責務」の運用を適正なものにしてくれる可能性が高くなると考えるのは、法律の門外漢ゆえの浅い考えかもしれません。
ただ、いままでの実態を考えた場合、医療名目で様々な機会に、「患者の責務」として精神的な圧力、実質強制がまかり通る可能性はまだまだ払拭されません。
法律としてことばだけがまとめられ立派になっても、実際の医療環境の場で実効性のあるものになっていなければ意味がありません。それ故、しつこく法案を反芻しています。
ちなみに、「患者の責務」とは別に、「国民の責務」という項目では、当会世話人会案では、
6 国民の責務
i 国民は、医療の公共性を踏まえ、その適正な利用に努めるものとする。
ii 国民は、自らの健康状態を自覚し、健康の増進に努めるものとする。但し、病気や障碍を、この健康増進義務に違反した結果であると解釈してはならない。
となっており、日本医師会医事法関係検討委員会の『「医療基本法」の制定に向けた具体的提言』では、
第7条(国民の責務)
国民は、日常から自らの健康に関心をもつとともに、国民全体の社会的連帯の考え方を理解し、医療施策に関する相応の負担と適切な受療に努めなければならない。
とあります。これら国民の責務についてはおおよそ納得のできる内容です。
「患者の責務」の独り歩きは、裏返せば患者の権利が保証されていないことを意味します。そういうことだけは実際に封じたいという思いです。