福岡市 緒方 枝里
このタイトル、何を今さら、といぶかっておられる方も多いかもしれません。けれど、実は昨年まで、カルテ開示については、患者の権利を否定する判決しか存在していなかったのです。
昨年の12月20日、福岡地裁で、カルテ不開示に対して慰謝料を認めた判決が言い渡されましたのでここにご紹介します。
まずは、事案の内容からご説明しましょう。
原告であるTさん(昭和八年生まれ)は、昭和56年頃から異型狭心症のため大学病院に通院されており、A医師が主治医として担当していました。A医師が大学病院を退職し、Bクリニックを開設するのに伴い、Tさんも平成15年10月からBクリニックに通うようになり、平成19年8月までの間、異型狭心症、不眠等のため通院していました。
Tさんは、その後平成17年9月6日までの間、A医師からハルシオンなどの処方を受けていたのですが、手足の震え、体感異常(体がぐにゃりとなる)といった症状があらわれました。そのため、これらの症状はハルシオンの副作用ではないか? とA医師の処方に疑問を持ち、その投与をやめるよう申し出ました。その結果、投薬は中止されましたが、Tさんの症状は一向に治まりませんでした。
そこで、Tさんは他の病院でセカンド・オピニオンを求めたいと思い、平成20年7月16日、Bクリニックを訪問して、診療記録の写しの交付を求めましたが、拒否されました。平成20年12月10日には再びTさん自身が、また、平成21年1月28日にはTさんの長女(医療に関する一定の知識がある有資格者でした)が代理人として、あらためてカルテの開示を請求しましたが、Bクリニックは一切応じませんでした。
困ったTさんは、NPO法人患者の権利オンブズマンに相談し、平成21年2月に不開示に関する苦情の申立をしました。オンブズマンでは、「診療録不開示調査」を実施して、「クリニックの診療記録の不開示には正当事由がない」として、同年4月15日付けで開示勧告をしましたが、Bクリニックには、これにも応じませんでした。
その後、Tさんはオンブズマンからタイアップ代理人弁護士を紹介され、裁判所に証拠保全の申立をしました。平成21年8月5日、裁判官、書記官、弁護士が乗り込んだところ、Bクリニックは、(1)検証の目的物は電子カルテであり改ざんの余地はない、(2)開示すればTさんに悪用されるので謄写させない、などと言って、裁判所の提示命令を拒否し、証拠保全は空振りに終わってしまいました。立ち会った弁護士によると、Bクリニックは、裁判所にだけみせるのであればいいが、Tさんは異常なので謄写させないと言っていたそうです。
Tさんは、被告のかたくなな態度に憤慨し、裁判をしてでもカルテを開示させ、慰謝料を請求したいと望み、平成23年3月28日、私も加わった三名による弁護団で、福岡地裁に訴訟を提起しました。請求の内容は、1)カルテの写しを交付せよ、2)カルテ不開示の慰謝料100万円と弁護士費用40万円の合計140万円を支払え、というものでした。
一方で、Tさんは、Bクリニックの投薬が誤処方だったのではないかという強い疑いを抱いておられましたので、誤処方の責任を追及する裁判ができないかと考え、その点に関する調査事件も受任しました。薬剤師の先生に随分相談させていただきましたが、こちらは責任追及できる見込みは少ないとの結論にいたったので、カルテ開示と損害賠償請求を求める裁判にしぼったのです。ハルシオンの処方量自体はたしかに添付文書の基準を上回るものでしたが、ハルシオンの典型的な副作用とTさんの自覚症状とがあわない(つまり、因果関係が認められない)、ハルシオン以外に、コントミンなど副作用としてTさんの自覚症状と一致する薬がいくつかあるが、投与量や組み合わせが特に問題だとは思われない、ということでした。
さて、カルテ開示の裁判の方に話を戻します。
Bクリニックは、提訴後まもなく、代理人弁護士を通じて、カルテ開示に応じると連絡してきて、弁護団の元にカルテの写しが送られてきました。そこで、訴えの中のカルテ開示を求める部分は、すでにみたされたので、その部分だけ訴えを取り下げるということもできたのですが、被告が裁判に応じてカルテを開示したということを裁判上の記録に残したいということで、被告が「請求の認諾」をしたという形をとりました。
あんなにかたくなに開示を拒否していたBクリニックが、裁判を起こされたとたんなぜ自ら開示してきたのか。代理人は、Tさんから開示請求されていた当時は、患者や医療従事者等の個人情報が5000件を超えておらず、個人情報保護法2条3項の個人情報取扱事業者にあたらなかったため、同法に基づく開示義務を負わなかったが、その後、5000件を超え個人情報保護法が適用されるようになったため、開示義務を履行した、と説明しています。
このカルテ開示の履行と請求の認諾によって、Tさんの当初の目的は半分以上達成されたのですが、不開示に対する慰謝料請求が認められるかどうかという問題は依然残っていました。これが認められるためには、カルテ開示義務があるのにこれを怠ったと言えなければなりません。つまり、大前提として医師のカルテ開示義務、ひるがえせば患者のカルテ開示請求権が認められなければなりません。この点について、原告側は、1)診療契約上そのものから導かれる付随義務として医師には診療記録の開示義務がある、2)診療契約上の説明・報告義務の一環として開示義務がある、3)個人情報保護法に基づく患者の個人情報開示請求権に対応して開示義務がある、という三つの根拠を掲げました。
1)、2)について、被告は、TさんはA医師が悪意を持って誤った処方をしたと言いがかりをつけており、統合失調症的な症状がある。カルテを開示すれば、根拠のないクレームを出すなど、不当な行為を助長または誘発することになりかねないため、拒否したのだと主張しました。
3)については、当時個人情報保護法の適用を受ける事業者ではなかったという主張を改めて展開しました。
さて、判決です。
裁判所は、1)の主張については、医師は診療契約に基づき、患者に対し、適切な診療を行う義務があり、そのためには診療に関する事項を記載した診療録を作成し保存する義務があるものの、医師法がこれを義務づけているのは、医療行政上の観点から診療行為の適正化等を図る目的によるものであって、また厚労省の診療情報の適用に関する指針や個人情報保護法運用上のガイドラインは法規範性を持つものではなく、それ自体が独立した診療契約上の付随義務として医師らが診療録を開示する義務を負い、患者が開示請求権を有すると解するのは困難であるとしてしりぞけました。
これに対し、2)については、医療契約は、患者が医師や医療機関に対して適切な診療を求め、医師等がこれに承諾することにより成立する、民法上の「準委任契約」とされるところ、医師等は診療が終了したときは、その結果を報告する義務を負うものである(民法645条)とし、「医療行為が医師の高度な専門的な知識や技術をもって行われる行為であり、医師がその内容、経過、結果等を最も知り得る立場にあるのに対し、患者は一般的にこれを容易に知ることが困難であると考えられること、医療行為の内容、経過、結果等は、患者にとってその生命、身体等に関わる当然に重大な関心を有する事項であり、患者の自己決定の前提となる自己情報コントロール権の尊重の観点をも併せ考慮すると、医師等は、診療契約上の報告義務の一環として、少なくとも患者が請求した場合には、その時期に報告するのが相当とはいえないなどの特段の事情がない限り、患者に対して医療行為の内容、経過、結果等について説明及び報告すべき義務(てん末報告義務)を負うと解するのが相当である」としました。
さらに、「医師等の患者に対する説明及び報告の内容、方法等によっては患者の生命、身体に重大な影響を与える可能性があることから」、説明や報告の仕方については医師に一定の裁量が認められるけれども、診療録は診療後すみやかに作成されるもので、記録としての客観性、信頼性の高いものであるため、患者にとってはその開示を受ける利益が大きいのに対し、医師等にとっては、開示することによる不利益は直ちには想定しがたいと指摘しました。
そして、改めて、「患者の自己情報コントロール権を尊重する観点からも」、医師には患者の求めに応じて診療録を開示する方法により説明、報告をすることが求められており、そうでなければてん末報告義務に違反したとの評価を免れることはできない、としました。
その上で、本件について具体的に検討し、Tさんが3回にわたってカルテ開示を求めたのに拒否し、患者の権利オンブズマンによる勧告にも耳を貸さなかった被告と原告の信頼関係は既に損なわれているのだから、診療等について適切に報告する方法としては、診療録の写しを渡すこと以外想定しがたい、それに対し、被告が開示しない理由として述べている事情は、Tさんの身体等への影響に対する配慮に基づくものではなく、合理的な理由とはならないとして、てん末報告義務としてのカルテ開示義務に違反しており、これによってTさんが被った精神的損害を賠償すべき責任があるとしました。
3)については、当時は個人情報保護法の適用を受ける事業者ではなかったとして原告の主張をしりぞけました。
そして、てん末報告義務違反によってTさんが被った損害について、約三年弱の間、診療録を受け取ることができなかったため、その診療等について十分に認識することができなかったこと、患者の権利オンブズマンへの苦情申立手続をとることを余儀なくされるなど、自分の身体に対する不安を抱き、相当程度の労力、費用を要したことを考慮して、慰謝料30万円を認めました。
「てん末報告義務」と聞いても、法律専門家以外はぴんとこないかと思います。また、「付随義務」としては認めないと言いながら、民法上で定められた義務として認めるというけど、どう違うの? という声もあるかもしれません。
実は、昨年1月には東京地裁で、歯科診療に関するものですが、やはりカルテ不開示が問題となり、20万円の慰謝料が認容されたケースがあります。こちらは「付随義務」としてのカルテ開示義務を認めたものです。けれど、読むと「てん末報告義務」ととれるような記述もあり、また本判決との大きな違いは、個人情報コントロール権や自己決定権への言及がないことです。本判決は、明文上の根拠として、民法のてん末報告義務を用いていますが、以上にご紹介しましたように、患者の自己決定権、自己情報コントロール権を繰り返し強調しています。実質的には、自己情報コントロール権の一環としてのカルテ開示請求権を認めたものと評価することができるかと思います。
それにしても、厚労省の指針はあくまでもガイドラインであって医師に義務を課すものはないとの裁判所の考え方を前にすると、「権利」はそれを定める法律がなければ、実効性のあるものとして認められないのだという思いを強くします。やはり患者の権利を明確に定める法律の存在は、ぜひとも必要なのだと言わざるを得ません。