権利法NEWS

7回目を迎えたハンセン病市民学会

事務局長 小林洋二

 

沖縄で開催された第7回ハンセン病市民学会に参加してきました。

ハンセン病市民学会は、2005年5月に設立されました。熊本地裁判決で国の隔離政策の誤りが明らかにされ、国会が謝罪を決議したにもかかわらず、 2003年に起こった黒川温泉での宿泊拒否事件、そしてそれに引き続いての被害者バッシング。差別偏見の連鎖を絶つためには、国や自治体レベルの取り組み だけではなく、市民の一人一人が、これまでの生き方や社会との関わり方を再考していく必要があるのではないか。そんな問題意識で始まった市民の交流は、第 一回の熊本から始まり、富山、草津、東京、鹿屋、岡山と続き、今年の沖縄で7回目を迎えました。

20日の宮古南静園での交流集会に始まり、23日の石垣・西表フィールドワーク(オプショナルプラン)まで続くプログラムの中、私が参加できたのは21日の名護市民会館での交流集会と、翌22日の沖縄愛楽園での分科会だけだったのですが、それでも、この市民学会が提起した問題意識が確実に社会に浸透しつつあることを実感することができました。

企画の中で、私が一番感銘を受けたのは、21日の交流集会の第2部「いま、ぬけだそう!〜手をつなぎ共に生きる社会へ〜」です。

パネリストは、沖縄愛楽園退所者の金城幸子さん、20代半ばから精神病を発病し、入退院を繰り返しながら闘病生活を綴った「精神病なんてこわくない」などの著書を出版してきた新里よし子さん、血友病患者で薬害HIV被害者の井上昌和さん、脊髄損傷患者で沖縄県に障害者の権利条例を求めている「障害のある人もない人もいのち輝く条例づくりの会」共同代表の上里一之さん。

金城幸子さんは、沖縄愛楽園の原告第1号です。私が初めて愛楽園を訪れた際にも、幸子さんの部屋で、その数奇な人生の一端を聞かせてもらいました。もっとも、熊本の回春病院でハンセン病の両親から生まれ、沖縄を経て台湾に渡り、ここで台湾楽生院に入った母親と別れ、糸満の父の実家に送られ、祖母に捨てられ、久高島の女性に引き取られ、その女性の結婚に伴って与那国島に移り、ハンセン病を発症して愛楽園に入り…といった彼女の人生は一度や2度聞いたくらいではなかなか頭に入りません。

その幸子さんは、国賠訴訟判決後、愛楽園を退所し、ハンセン病回復者として語り部の活動を続けています。四年前には、「ハンセン病だった私は幸せ〜子どもたちに語る半生、そして沖縄のハンセン病」という自伝も出版しました。最初は自分も怖かった、でも一歩踏み出せば、そこには本気で支えてくれる人たちとの素晴らしい出会いがあるのだと彼女が語るとき、「ハンセン病だった私は幸せ」という言葉がちっとも逆説に聞こえません。

井上さんと浅川さんのご夫妻は、ハンセン病問題の支援者としてお名前を存じ上げていましたが、井上さんが薬害HIVの被害者であったことは、迂闊なことに今回初めて知りました。そして、その井上さんが薬害被害者として実名を公表することになったきっかけが、あの10年前の、ハンセン病国賠訴訟に対する控訴断念を求める首相官邸前座り込みに参加したことにあるのだと聞いたとき、私は、島比呂志さんのことを思い出していました。島比呂志さんは、95年7月発行のけんりほうニュース48号に「法曹の責任」という記事を投稿し、ハンセン病国賠訴訟への動きに火を点けた方です。その島比呂志さんに火を点けたのは、大阪HIV訴訟原告番号一番赤瀬範保さんから届いた、「ハンセン病患者はなぜ怒らないのか」と問いかける手紙でした。赤瀬さんの思いが島さんに届き、大きく拡がった闘いが同じ薬害HIV被害者である井上さんの背中を推し、そして、いま、井上さんと幸子さんが同じ市民学会の壇上で語り合う。島さんが赤瀬さんの手紙を受け取って既に20年以上の年月がたち、既にお2人とも亡くなりました。しかし、彼らの思いは、こうやって脈々と受け継がれています。

今回の交流会で画期的だったのは、この2人とともに、精神障害者の新里さん、身体障害者の上里さんがパネリストとして壇上に並んだことです。差別・偏見を快勝していく運動が、ハンセン病に対する差別・偏見を解消する運動や、HIV感染に対するそれを解消する運動にとどまっていては、決して実を結ぶことはないでしょう。赤瀬さんの思いが島さんを動かし、それが井上さんに戻ってきたように、このハンセン病市民学会の運動が、全ての障害者運動に届き、それが再びハンセン病問題に戻ってきた時、障害のある人もない人も、病気の人も健康な人も、いのち輝く社会が見えてくるのではないでしょうか。

福島第一原発周辺地域から避難してきた人たちに対する差別・偏見も報道されているように、現実はまことに甘くありません。もちろん、ハンセン病回復者をとりまく状況も然りです。しかし、差別・偏見の連鎖を絶つための、共感・共生の連鎖が拡がりつつあることもまた確かであると感じさせられた沖縄での市民学会でした。