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そのまま受け入れるということ

福岡市 久保井 摂

 しばらくのところ、高橋源一郎氏のTwitterによる「午前0時の小説ラジオ」を楽しみにしていた。ツイッターとは急速に広まったコミュニケーション の道具。加入者からの140文字内の「今どこで何をしてる」というつぶやきがさざ波のように流れてくる。2月半ば連続して行われたつぶやきは、彼の新刊の 発売をにらんだものだった。糸井重里氏のサイトとの共催で、この期間は入力する髙橋氏の姿がUSTという画像配信ツールで中継された。

 カタカタと鳴るキータッチを聴きながら、流れてくるつぶやきを読み継いでいく。発信者と視聴者の間の妙な緊張感のなか、こちらはじっと息を潜めてパソコンの画面を見続ける。そんな夜中の逢瀬である。
 2月17日深夜にはじまったつぶやきが、今回のシリーズの最終回。自身の二男の大病を経験した際の、小児病棟における、奇妙な、異様な昂揚感、と幸福感、そして、同じく重篤な病や障害のある子を持つ母親たちの明るさについて触れた後、「ぺてるの家」の営みへと展開していった。「そのまま」と題されたこの連投は、ぺてるの会の医師、川村さんの言葉を引用して、病気による症状だと名指しされ、治療対象とされ、語ることを封じられてきた幻聴体験を、「そのまま」受け入れ、「幻聴さん」と共生し、「幻聴さん」について語る言葉を取り戻すことによって、統合失調症の患者たちが、「回復」していくことを紹介してゆく。
 重い病の、あるいは障害を抱えた子たちの母親の、明るさ、前向きであることは、その障害をその子の「個性」としてとらえ、「そのまま」に受け入れている母親たちの心性によるものではないか、と彼はいう。
 私はそれを否定するものではないが、しかし、そこに至る過程に、そして、なお、母親たちのかかえる重さに、言及してみたい。
 医療事故に患者側でたずさわる弁護士として、人前で話をするとき、しばしば引用する、かつての依頼者のことばがある。出産事故のため、はじめての子が重い低酸素性脳症から重度の脳性麻痺となり、10歳を迎える直前のある朝、気づくと自宅の布団の上で冷たくなっていた、そんなお子さんを大事に育てたお母さんの言葉だ。
 彼女と出会ったのは、その子が3歳になるちょっと前のこと。出産時の産婦人科医の処置に問題はなかったのだろうか、と、調査を依頼された。当時は証拠保全でしかカルテが入手できなかったので、彼女の場合も裁判所に証拠保全の申し立てをして、出産したクリニックと、出生後搬送された新生児救急病院のカルテを手に入れて、検討した。
 その結果、クリニックが分娩直前の分娩監視記録(胎児の心音と母体の陣痛の強さをグラフで示すもの)を、どうやら他のものとすり替えているらしいこと、そして、それ以前の分娩監視記録で、数時間に渡り、胎児に異常所見を指摘できることが明らかになった。つまり、裁判を起こせば、比較的容易に過失を証明でき、損害賠償請求が認められる事例だという判断にいたったわけだ。
 しかし、彼女も夫も、損害賠償を望んでいたわけではなかった。彼女の例に限らず、医療事故被害者の多くは、損害賠償請求という形でしか、自分たちの思いを形に出来ないことについて、納得できない思いを表明する人が多い。
 私は、「けれど、産婦人科医の処置の誤りを公に明らかにし、再発防止につなげるためには、ほかに方法はありませんよ。これだけ重度の障害を抱えたお子さんを育てるには経済的な支えも必要ですし、賠償金はいくらかその助けになります」と、熱心に請求書を送ることを促し、彼女らは交渉で解決するのであれば、と、しぶしぶ応じた。
 ところが、当該クリニックは、医事賠償責任保険の関係で不手際があり、交渉では保険金がおりないことが判明し、クリニックの代理人から、「申し訳ないが、任意の交渉では数百万しか出せない。それ以上を求められるのであれば、裁判を起こしてください」との連絡があった。
 そのことを彼女らに伝えたとき、裁判でも十分に有責性を立証できる確信があったので、裁判しましょう、これだけひどい事実があるのだから明らかにしたい、との思いを伝えた。けれど、彼女は裁判はしたくないのだと言った。そのときの、彼女のことば、彼女の凛としたまなざしを、私は今も思い浮かべることができる。
「裁判はしません。その裁判は、しんちゃん(その子の愛称)が、この障害を持って生きている、そのことが悪いこと、損害だという裁判ですよね。しんちゃんは私たち夫婦にとってかけがえのないたからものです。私たちはそんな裁判はしたくありません。」
 私はいたく感動した。そして、民事損害賠償請求の消滅時効は10年であること、気が変わればいつでも受任する用意のあることを伝えて、その際の委任事務を終了した。
 次に彼女から連絡を受けたのは、何年もたって、しんちゃんが9歳になろうとした頃だった。泣きながらの電話だった。聞けば、あれからずっと自宅で過ごしていたが、先日風邪を引いたため、大学病院の小児科を受診させたところ、気管切開が必要だと告げられた。自分は気管切開するのはかわいそうだからいやだと言ったが、医師は、今現在の呼吸困難を改善するためには切開した方がいいし、改善すればまた閉じればいいだけの話だから、と説明した。それで、逡巡したあげく同意したが、処置後に、しんちゃんのように重い障害を持っている子は、いったん気管切開したら、もう二度と閉鎖することは出来ないと聞いた。気管切開を決定した主治医を許せない、訴えたい、というものだった。
 それからしばらくを経て、しんちゃんは、10歳を目前に、自宅でなくなり、家族で喪の儀式を済ませた後、あらためて相談を受けた。
 やはり、小児科医を許せない、という訴えだった。しかし、医療水準的な目でいえば、その小児科医は誤ったことをしたとはいえない。切開した気管をすぐにも閉鎖できると述べたことは誤りで、それは指摘できるかもしれないが、その事実を証明することは困難で、また、いかなる損害が生じたのかを明らかにすることも難しい。
「それよりも、しんちゃんにこんな障害をもたらした産婦人科を問題にしませんか」
 と、私は言った。
 彼女は即答はしなかったが、しばらく考えてみますといった後、裁判を起こしたいと伝えてきた。出生からちょうど10年を経過するところだったので、まずは内容証明郵便を出して、時効を半年延長させてから、裁判を起こした。
 裁判では、当然ながら、彼女に、しんちゃんへの思いを語ってもらった。その際、私はずっと心にあった彼女の言葉、裁判を拒否したときに語った言葉を、再現してもらおうと思っていた。ところが、打ち合わせの席で、「あのときこう言われましたよね」と言った私に、彼女はあっさり、「そんなこと言いました?」と述べた。拍子抜けしながら、詳しい事情を改めて聞いたら、こんな話をしてくれた。
 しんちゃんの障害を、私はずっと受け入れられなかった。誰からも永続的な障害が残るという説明はなく、リハビリによってどれだけ機能が回復するかだと伝えられていた。だから、生まれて3年間は、夜も昼もなく、しんちゃんを健康にするんだと、懸命にリハビリに励んだ。それ以外何も手に着かず、何も考えられなかった。3年が過ぎようとした頃、ふと、しんちゃんの障害がまったく改善していないこと、おそらくは永続的なものであることに気づき、そういうこどもたちを受け入れる訓練施設の扉をたたいた。
 その施設のパンフレットに、こんな言葉が書いてあった。
「この子は、あなたたち夫婦を選んで、生まれてきたのです」
 その言葉を読んで目が開かれた思いだった。そうだ、しんちゃんは、私たち夫婦を選んで、生まれてきてくれたのだ。そうしたら、世界が違って見えて、この宝物であるしんちゃんをどう育てていこうか、という気持ちになった。
 そこで初めて、でも、では、しんちゃんはどうしてこんな障害を背負わないといけなかったのか、そのことに私たち夫婦に責任はないのか、と思い、原因を知りたいと思った。そのために弁護士に依頼した。結果は、私たちのせい(妊娠時の不注意等)ではなく、産婦人科医の問題ということだった。それが分かったことで、しんちゃんに対して負い目を持たず、純粋に愛情を注いでいけると思った。
 弁護士からは訴訟を勧められたが、当時の私たちは、障害の重いしんちゃんと生きていくことが精一杯で、とてもとても、裁判を背負うことは出来なかったからお断りした。
 しんちゃんと生きていく中で、私たちがいなくなった後、この子はどうなるのだろうと思い、それまでは全く考えていなかった次の子を産もうと決め、二男を授かった。そうして、しんちゃんを中心に、ほんとうにすばらしい人生を歩むことが出来た。
 けれど、しんちゃんがあのように亡くなってみて、はじめて考えた。
 私たちにとって、しんちゃんは宝物だった、しんちゃんと過ごすことによってかけがえのない多くのものを得た。けれど、しんちゃんにとってはどうだっただろう。うまれて10歳を目前にするまで、首も据わらず、一言も発せず、自分からの意思表示は困難で、ひっきりなしのけいれんに襲われ、最後には呼吸困難が続いて、誰からも気づかれず布団の中で息を引き取ったしんちゃんにとっては、生きていることそれ自体が、大いなる苦痛ではなかったか。
 ならば、しんちゃんのために、しんちゃんがどうしてあのような苦痛を背負わなければならなかったのかを明らかにするのが、遺されたわたしたちのつとめだ。そう思った。
 この言葉を聞いて、私は深く頭をたれる思いがした。浅薄にも、それまで自分が抱いていた、彼女のことばへの感銘を恥じた。
 それほどに、障害のある子を持つ親の思いは深い。
 「そのまま」を受け入れるまでに、どれほどの紆余曲折があることか。今現在の「信じがたい明るさ」「前向きな姿勢」は何に支えられているのか。そんなに単純ではないのだと、高橋氏に少々もの申したい気持ちにもなったが、ここに書き留めてみるしだい。