生井久美子著・岩波書店刊
盲ろうとは、目が見えず、耳が聞こえないこと。本書は、九歳で完全に視力を失い一八歳で聴覚を失なった福島智さんに出会ってしまった生井久美子さんが、「書かざるを得なかった」渾身のレポートだ。
あとがきの冒頭の文章に、著者のその思いが凝縮されている。
「伝えたかったことはただひとつ。
この世にいま、「福島智」という人が生きていることです。
大切な人とも別れ、だれもがいつかはこの世を去らなくてはならない。でも、それまで、何とか生きてゆこう。福島さんに出会ってしみじみとそう思えるようになった。「心の芯が凍りつくような魂の孤独」をへて、いまも困難のなかを、福島さんがこの世に生きていてくれるのだから。」
福島さんは、現在東大先端科学技術研究センターの教授。
本書はちょっと不思議な構成になっている。伝記であれば時系列に沿ってエピソードを追うのが普通だが、まず「盲ろうとは何か」という問いから筆を起こし、福島さんの発言や著した文章を引用して盲ろうを生きるとはどういうことか、読者にイメージを持ってもらった上で、生い立ちについて綴りはじめる。そして、随所にいま現在の生井さんの問いかけと福島さんの答えが登場する。時間軸はときに交錯し、同じエピソードが違った側面から照らされて再登場する。
新聞記者らしからぬ…とでも言おうか。でもそれは無理からぬことなのだ。福島さんという存在に出会えたよろこびが生井さんの胸から絶えずあふれだしているのだから。
聴覚を完全に失おうとしていた時期、母親が何気なく自分の指で福島さんの手に打った点字が、盲ろうの闇を社会へとつなぐ「指点字」となり、出会いを重ねて、「指点字通訳」が生まれる。盲ろうである彼は、人が触れてくれない限り絶対的な孤独の中にある。「指点字」で対話をしていても、自分の手に指点字を打ってくれる相手としかコミュニケーションがとれない。この状況を救ったのが「指点字通訳」だった。その場のやりとりや光景を指点字で「実況中継」してくれる「通訳」の発見は、まさに福島さんにとってのコミュニケーション革命であり、そこから、人とつながり続ける今がある。
「しさくは きみの ために ある」
生井さんが「なんて美しい言葉だろうと胸がいっぱいになった」という、盲ろうになって戻った盲学校で友人から贈られた言葉。その通り、深く豊かな思索を重ねながら、同時にびっくりするほどの明るさとユーモアを持って行動していく彼。
けれど、けっして「英雄」として描かれているわけではない。わがままもあり、打算もある。傷つけ合うこともある。そんなさまざまな「盲ろうを生きる」彼の姿をリアルに追おうとしているのだ。
「盲ろう」の象徴的存在として注目され続けることの重圧から、取材を続けていた生井さんの前で体調を崩していく福島さん。
本書を読みながら、いろいろなことを思った。障害とは何だろうということ。しあわせとは何だろうということ。
いっぱいいろんなことを思い、でもやっぱり、何だか、生井さんに「よかったね」と言いたい気分。こんな出会いを持てて、本当によかったね、しあわせだね、と。
久保井摂