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尊厳死に関する意見交換会に向けて

小林 洋二

 前号でお伝えしたとおり、12月2日、尊厳死協会の「尊厳死法制化に関する法律学習会」に鈴木利廣世話人とともに出席してきました。

 「つくる会」には尊厳死法制化に推進する立場の方も、絶対反対という方も参加されています。私自身についていえば、この問題について確固たる見解を持てないまま現在に至っているというのが率直なところであり、先日の勉強会でも、東海大病院安楽死事件判決の射程や、成年後見制度による代理権の範囲など、専ら法律的な問題点についての質問に答えるという立場で参加しています。

 しかし、今回の尊厳死協会からの申し入れを機に、少し調べたことや、考え方を整理した部分がありますので、現段階における私なりの論点整理と私見をお示しした上、会員の皆様のご批判を乞いたいと思います。

 大きな論点としては、以下のように整理できるのではないでしょか。

【基本的な考え方】患者の終末期において、予め患者自身が表示していた意思に基づく治療中止を許容するか否か

【法制化の是非】治療中止の許容、及びその条件などを法律で定めるべきか、あるいはガイドラインで足りるか

【許容要件としての意思表示】治療中止を許容するとして、その要件としての患者の意思表示は、本人による明示の意思表示(いわゆるリビング・ウイル)に限るか、それとも家族の意思表示による患者の推定意思で足りるか

【許容要件としての患者の状態】治療中止を許容する状態としては、死期が切迫した「末期」に限定すべきか、回復可能性のない持続的植物状態を含むか

 このほか、中止することが許される治療の範囲を限定するか否か、リビング・ウイルに限定した場合の様式の問題、要件充足をいかに判断しまた事後的に検証するか等、様々な論点があり得ますが、とりあえずは右に挙げた四つの論点について考えてみたいと思います。

 

【基本的な考え方】

 私は終末期における治療中止を求める患者の意思が明確である場合、患者の自己決定として尊重し、治療を中止すべきだと考えています。

 浦瀬さんのレポートでも触れられていましたが、延命治療の中止が許されるかどうかが問題になった刑事事件として、東海大学病院安楽死事件があります。この事件自体、「治療中止」の事案というより、積極的安楽死の事案であり、結論的にも殺人罪で有罪になっていますが、理由中に以下のような治療中止の要件が挙げられています。

(1) 回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にあること

(2) 治療中止の時点で患者の意思表示が存在するか、家族の意思表示によって患者の意思を推定することができること

(3) 治療中止の方法が自然の死に方に沿っていること

 この要件は、川崎協同病院事件でも踏襲されており、2004年2月に発生した北海道立羽幌病院事件に対する不起訴処分など、検察実務にも影響を与えていると思われます。

 一方、2006年7月31日の読売新聞の報道によれば、調査に回答した医療機関の五六%が延命治療の中止・差し控えを行っています。この報道では、延命治療の中止・差し控えの具体的内容は不明ですが、人工呼吸器の取り外しといった分りやすいものに限定せず、輸液・栄養補助の制限、昇圧剤投与の差し控え等を含めれば、「延命治療の中止」は相当広範囲に行われているのが実態ではないでしょうか。なお、延命治療の中止の条件を定めている医療機関はわずか九%であり、主治医単独で延命治療の中止を決定したという回答が四六%にのぼっています。

 結局のところ、患者の自己決定を尊重するというルールが確立していない現在の段階では、主治医の裁量あるいは家族の意思、多くの場合は両者の「阿吽の呼吸」といったものによって治療中止が決定されているのではないかと思われます。

 しかし、終末期においても、患者本人の意思こそが最も尊重されるべきであり、主治医や家族の考え方がそれに優先する理由はないはずです。

 このような考え方に対しては、「リビング・ウイルは末期状態を想像した仮定的な意思表示であり、現実の末期状態における意思表示と同視することはできない」という反対論があります。実は、東海大学病院安楽死事件判決も、リビング・ウイルは末期における患者の意思を推定するための資料と位置付けており、リビング・ウイルそのものを末期における意思表示と同視してはいません。しかし、末期で意思表示できない状態になった段階における患者の「意思」という観念は、それ自体が一種の虚構であり、むしろ、意思表示できない状態になることを予測するからこそリビング・ウイルが表明されるのです。私は、リビング・ウイルそのものを患者の意思として尊重すべきだと考えています。

 また、「患者の自己決定権は自殺の権利を含むものではない」という根本的な批判があります。確かに、患者は医師に毒薬の処方を求めることはできません。しかし、治療を受けるか否か、いかなる治療を受けるかは患者の自己決定権の範疇である、その自己決定が結果として死亡に繋がることはあり得ます。リビング・ウイルも、そのような自己決定の一つと考えることができるのではないでしょうか。

 

【法制化の是非】

 私は、前述のような考え方に基づき、治療中止の許容、及びその条件などを法律で定めるべきだと考えます。

 2004年7月に発表された、厚生労働省の終末期医療に関する調査等検討会報告書「今後の終末期医療の在り方について」によれば、「治る見込みがなく、死期が近いときは単なる延命治療を拒否することをあらかじめ書面に記しておき、がんなどの末期で実際にそのような状態になり、本人の意思を直接確かめられないようなときは、その書面に従って治療方針を決定する」(リビング・ウイル)という考え方の賛否を問うアンケートに対し、一般人の83%、医師の88%が賛成と回答していますが、一方、リビング・ウイルの効力を法律で定めるべきであるとするものは、一般人の37%、医師の48%に止まっています。また、前述の読売新聞の調査では、医療機関の七二%が終末期医療に関する全国的なルールの必要性を認めているが、法律よりもむしろガイドライン的なものを望む声が強いようです。

 「ルールは必要だが法律はイヤ」というのは、画一的ではなく柔軟に、という意識の現れでしょうか。しかし、事柄の性質上、あまり柔軟に扱うべきではないように思います。そもそも、治療を中止した医師が殺人罪あるいは承諾殺人罪の刑事責任を負うかどうかという問題なのですから、それを免責するルールはやはり法律によらざるを得ません。

 なお、尊厳死肯定論に対する批判として、前述したものの他、「末期状態において死に向けての自己決定を肯定することは、末期状態にある生命の否定的評価につながり、ひいてはALS患者等人工呼吸器に依存する生命の否定に繋がりかねない」という見解があります。私は、このような危惧感に応えるためにも、尊厳死はあくまでも患者の自己決定権に基づいて認められるものであり、決して生命の質に対する否定的評価に基づくものではないという趣旨を法律の明文で謳うべきだと考えます。

 

【許容要件としての意思表示】

 私は、治療中止は患者本人の明示の意思表示に基づくべきであり、家族の意思表示による患者の推定意思では許されないと考えます。

 前述のとおり、東海大学病院安楽死事件判決は、「治療中止の時点で患者の意思表示が存在するか、家族の意思表示によって患者の意思を推定することができること」という要件を立てています。但し、家族の意思表示によって患者の意思を推定するためには、さらに以下の条件が必要としています。

(1) 家族が患者の性格、価値観、人生観などについて十分知り、その意思を適確に推定しうる立場にあること

(2) 患者の病状、治療内容、予後等についての十分な情報と認識を持っていること

(3) 医師が患者及び家族との意志疎通に努めることにより、患者及び家族をよく認識し理解する適確な立場にあること

 前述のとおり、主治医と家族との「阿吽の呼吸」による延命治療の中止は、かなり広く行われていると思われます。厚生労働省の終末期医療に関する調査等検討会報告書「今後の終末期医療の在り方について」における調査でも、家族が患者本人に代わって延命治療を拒否することについて、一般の57%、医師の67%が肯定的に捉えています。しかし、家族が本人に代わって延命治療中止を決定するという考え方を採ることは法的には極めて困難です。東海大学病院安楽死事件判決が、家族による意思決定の代行ではなく、あくまでも「家族の意思表示による患者の推定意思」という構成を採っているのはそのためです。

 しかし、東海大学病院安楽死事件の挙げる(1)~(3)の要件、特に(1)の要件については、医師が判断し得るところとは到底思えません、そもそも、家族は、患者の生死について深い利害関係を持っているのが普通であり、その自分の立場を離れて、純粋に患者の意思を推定することは無理でもあるとも言えます。「患者の意思表示による患者の推定意思」を認めることは、結局家族の意思による治療中止を広く認めていくことになるでしょう。それは、患者の自己決定権に基づいて認められる尊厳死という考え方とは根本的に矛盾しているように思われます。

 

【許容要件としての患者の状態】

 私は、リビング・ウイルに基づく治療中止が許容されるのは、基本的に「末期」、即ち不治かつ死期が切迫した状態に限定されるべきだと考えます。

 しかし、回復可能性のない持続的植物状態の場合にどう考えるかについては、私自身の考え方をまとめることができていません、明確なリビング・ウイルがあれば、それを尊重するべきではないかとも考えますし、「死期が切迫した状態」という要件を外して、「回復可能性のない持続的植物状態」にまで拡げた場合、「死ぬ権利」を認めないという考え方と矛盾する可能性があるようにも思えます。

 以上、甚だ不十分ながら、現段階での私見をまとめてみました。既にお知らせしているとおり、来年1月13日にはこの問題についての意見交換会を主たる内容にした拡大世話人会を開催いたします。是非、多くの会員に参加していただきたいと考えています。もちろん、その後も継続して議論すべきテーマだと考えていますので、拡大世話人会の出欠にかかわらず、事務局宛ご意見をお寄せいただければ幸いです。