浦瀬さなみ
以前、わたしは数年間、終末期医療の現場で准看護師として働いた。その体験(患者たちは、生命尊重の美名のもと、本人の意思を無視した濃厚治療で骨の隋まで搾取され、あえぎ、呪いながら、死んでいった)を世に知らせるべく、『延命病棟』を、次に『死ぬにときあり』を書き、発表した。それが縁でいまだに読者からの生々しい報告が後を絶たない。つまり、裁判官の認識と現場の実態には乖離があるということである。それゆえ不遜を承知で専門家の判断に私見を併記させていただくことにした。
まず、先の争点にもどって、1.の、証言のくいちがい(註 直接死因となった筋弛緩剤の投与方法に関する被告人医師と証人看護師の違い)だが、わたしはカルテの内容を見たわけではないのであいまいな言及をするつもりはない。しかし、ここで問わねばならないのはミオブロックの使い方ではないはずである。被告は、セルシンやドルミカムの静脈注射の後、これ以上は法に触るからと断ってすべてが終わるまで見ていたってよかったのである。泣き叫ぶ子どもたちは病室から出ていってもらうかして。裁判官に、あなたならどうするか、と訊かれて「自分なら再挿管する」と答えた医者がいた。それももうひとつの選択肢である。被告はそのどちらもできなかった。「そういうこと(再挿管など)を言える立場ではなかった」のである。それを弱いというなら、人の死を支えられるのは弱さである、とわたしは言いたい。人は医療ロボットや、終末期マニュアルでは死ねないのだ。
2.家族の、抜管を「治療のためと思っていた」の証言にはおどろいてしまった。Fさんの場合、蘇生の前に呼吸停止時間が何分かあり、四肢硬直が既に現れていた。痰の細菌感染も含めて、素人に分かりやすく説明するために、一見軽い、あのような説明になったのだと思うが、それを誤解したことと、全員が枕元に集まった事実はどう考えても矛盾する。「被告の説明をうん、うんと聞いていた」「抜管前に家族が泣き出した」などから、「家族は納得していたのでは?」という准看護師Aさん、Eさんの証言もあった。
弁護士の「抜管の承諾書を取らなかった理由は?」に対し「家族に責任を転嫁しますよ、ということになり、医者としてそこまで家族を追い詰めてよいのかと思った」との応えにも共感できる。
3.(註 S医師が筋弛緩剤注射を勧めたか否か)については、裁判官は、死んでしまう患者に、手助けのために医者が待機する理由はないとして、S医師の「見とり(死の見とり)のためとは知らなかった」を正しいと認定したのだが、わたくしはそれにも同調できなかった。S医師も脳死段階の患者を延々と生かすことに疑問があったかもしれないし、家族の要請に応えて、自然な死を迎えさせようと決めた被告に協力したとすれば、その行為はなんら不自然ではない。
それでは、なんのためにS医師に待機してもらったかということだが、地裁の示した治療中止要件には、医師の単独行為にブレーキをかける意味で、グループ治療が提示されており、実行にあたっては、ほかの医師たちと相談して論議を尽さねばならないとしている。
しかし、実際問題として、それをクリアーするのはむずかしいという。どこを治療中止の限界とするか、医者それぞれ意見がちがってあたりまえだし、全員の一致を待っていれば、実行の時を失ってしまうだろう。場合によっては、経営者から横槍が入るかもしれない。そんなややこしい手続きに煩わされるより、患者はいずれ死ぬのだから、それまで黙して待ったほうがいい、ということになりがちである。ちなみに、当病院ではグループ医療体制は確立していなかった。被告がS医師に待機を頼んだのは、つまり、独断でやったのではない、ほかの医師にも相談したという形にもっていきたかったのだろう。
ちなみに、東海大安楽死事件の判決(一審確定)は、懲役二年、執行猶予二年である。わたしたちは、汚職議員が、地元のみそぎ選挙で、たちまち国会に舞い戻ってくるのを見ているので、執行猶予つきの量刑だからたいしたことではないと思いがちだが、おなじ量刑でも、医師に課される量刑は、その後に「医道審議会」の制裁が待っており、その方がずっと厳しいのだ。
罰金刑以上の刑が確定した医師は、医師法による「医道審議会」で、医師免許の停止や剥奪などについて審議されることになっており、東海大事件の徳永医師には、その後、3年間の業務停止が言い渡された。彼は事件が発覚して判決が下るまで5年間、謹慎して医業から離れていたので、事実上、8年間の業務停止を余儀なくされた。日進月歩の医療の場で、8年間のブランクは“もう医者はするな”に等しい、と医師たちはいう。
本件のY医師は、判決を不服として即時上告したので、いまのところ「医道審議会」の制裁は免れているが、高裁の判決次第ではそれ以上の制裁もあり得る。
判決の当日は朝から風が強かった。7時15分、定刻に船が出るのかどうかを金谷駅に問い合わせると、15分すぎにもう一度電話してくれという。それでは9時半のくじ引きに間に合わない。とにかく6時に家を出た。船が揺れたため電車のなかでもまだ船酔いが抜けないありさま、9時30分、着いたときには傍聴者が玄関に既に100人ぐらいは並んでいた。9時40分までに200人に膨れあがり、席は51、4人に1人のくじ運である……。
がっかりしていると、いつも傍聴していた顔見知りの老人だった。「これは、あなたにあげます。ぼくは近くに住んでいるからいいのです。そのかわり、きっと書いてくださいね」。押し戴いて、やっと、傍聴することができた。
ところが、わたしには、裁判長の読む判決文が主文以外さっぱり聞き取れなかった。喉に痰が絡まっているのか、何度も咳を繰り返し、水を飲み、ただでさえはっきりしない読みがその度に中断するのだ。陪席の裁判官に読んでもらうという方法もあるだろうに、それもなかった。
帰りに、京急の上大岡駅で全国各紙の夕刊を買い集め、電車のなかで読んだが、それにしても、記者たちは別途で入手しているのか、みんな聞きづらかったと、おなじ不満を漏らせていたからだ。裁判所の“知らしむべからず、依らしむべし”の大原則に肌で触れた一日であった。
それから、半年経って、判決全文が『判例タイムズ』(1185号)に発表された。わたしは千葉の県立図書館でようやくこれを探し当てた。なんという分量!原稿用紙にして224枚ある。人ひとりの生命がかかっているわけで、分厚いのは当然かもしれないが、読み終えて、むなしさをどうしようもなかった。
その全文の骨子となっているのが、はじめにちょっと触れた許容要件である。尊厳死法が施行された場合のことを考えて、いまからそれを点検しておいて損はしないだろう。まず、安楽死の許容要件だが、1.患者に耐え難い苦痛があること。2.死が避けられず、且つ、死が迫っていること。3.患者の意思表示が存在すること。4.治療が出し尽くされていて、他に代替手段がないこと。
本件はそのいずれもクリアーしていないと判定された。1.と3.は、患者は昏睡状態にあり、苦痛を感じていたとは言えず、自己決定能力もなかったわけで、成立しない。2.については、まだ、一週間から三か月程度は生きられただろうという鑑定医の証言があり、4.の代替手段も、入院からたった二週間経過したに過ぎず、治療を出し尽くしたとは言えない、との判断である。
次に、治療中止要件だが、1.回復の見込みがなく、死が避けられない末期状態にあること。2.患者の意思表示か、家族の推定意思(家族が患者の意思を推定して医師に表示する)があること。3.治療中止の方法が自然の死に方に沿っていること。
本件では、筋弛緩剤投与の前の抜管行為が治療中止要件に当たる。で、そこまでは許容されるのか、どうか? 1.は「三ヶ月はまだ生きられた」わけで、成立せず。2.は、この際、患者の明示の意思がないので、家族の推定意思要件に頼るしかないが、よく読めば、その要件には、さらにそれを許容するための二つの要件がぶら下がっている。ひとつ目は、患者との関係が信頼できるものであること。ふたつ目は、患者の病気、検査等に対する知識、病状の認識が正しいこと。
本件では、家族は、抜管の理由を「治療のためと思っていた」わけで、ふたつ目も不成立である。3.も、その前に「治療義務を尽くしていない」との判断なので、これも不成立、ということになる。
もっとも、2.が成立した場合、家族が殺人教唆で逆告訴されかねないわけで、家族にとっては成立しないほうがいいに決まっている。そのことだが、この種の裁判では、最初から家族の責任は問わないという不文律があるのではないか、という印象をもった。もし、問うつもりがあるなら、まず真っ先に、医師に依頼したかどうかの鍵を握っている妻を法廷に呼び出さねばならなかったはずだ。東海大事件でも、教唆まがいの依頼をしたとされる妻と息子は免責され、早々と、法廷から姿を消した。
一見、弱者にやさしい裁判だが、ねらいは市民対策であろう。家族が起訴されたら騒ぎが大きくなる。オランダでは、安楽死騒動に端を発した市民運動がその後次々とシステムの変革を推し進めていった。家族を安全に着地させることは、事件を安全に着地させることにもなるのだ。わたしの穿ちすぎかもしれないけれど。
さて、許容要件等に関してはこのとおりである。ちっとやそっとではクリアーできない。いくつも錠前はあってどれも利かないという。みせかけと、うそはどうちがうのだろうか。自己決定は治療が出し尽くされた絶望的な状態でなければ作動しないし、その時まではたして自己決定できる能力を維持しておれるかどうか――それはちっともかまわないのだろう――本人の意思が確認できない場合は、”疑わしきは生命の利益に“を原則に、医者は患者の生命保護を優先させ、医学的にもっとも適応した諸措置を継続すべきである、と謳ってある。
厚生労働省の統計では、わが国の国民医療費は平成15年で、31兆5375億円、全人口で割った国民ひとりあたりの医療費は24万7000円である。国の借金は増えるばかり、近いうち、国債の破綻は必至とされているが、すでに破綻している、という説もある。経済問題と医療を並べて論じるのは好ましくないということは分かっているつもりだが、しかし、氏の、どんな犠牲を払っても守らなければならないとする、その生命とはいったいだれの生命のことなのだろう?
2002年から2003年にかけて、わたしは、先に上げた自著を、女性誌などを通じて全国の人たちに配布したが、そのとき、たくさんの共感の手紙をいただいた。なかには、自分の親を看取った体験を赤裸々につづったのもあった。二、三拾ってみたい。
- Mさん、八七歳。持病の喘息で入退院を繰り返しているうちに病院でMRSAに感染して、腸炎を併発、下痢と嘔吐を繰り返した。そのため、抗生物質の大量投与、ステロイド系薬の副作用で相当体が弱っていた。そして四度目の入院である。 「朝、おむつ交換で体位を変えたら、急に意識混濁が起こり、その後、下顎呼吸が見られました。そのまましておけば父はまもなく死んだはずです。そのとき、その場に居たのはわたしひとりでした。でも、二四時間以内に医者に診てもらっていなかったので(死亡診断書を断られる可能性あり)、しかも病院は道を隔てた真ん前にあり、救急を呼ばざるを得ませんでした。その後、たっぷり終末期医療が課されたのはいうまでもありません。尿道には管が挿入され、モニターがセットされ、頻繁に引かれる痰、その度に苦しがる父、……意識が混濁しているのに、CTまでとろうとするのです。いまさら検査をする意味があるのか、『やめてください』と言ったけれども『先生の指示ですから』。……医療費は一七日間で八〇数万円支払わされました。(二〇〇二年死亡)」。
- Sさんの父は、入院中の妻を看ていたとき、脳梗塞で倒れた。 「……翌日、さらに状態が悪くなったとの知らせを受け、『人工呼吸器は着けさせないで』と妹に伝えて、すぐにかけつけました。もう意識はありませんでしたが、入院中の母も連れてきて会わせ……、これ以上治療を続けても、医師たちはその後どうなるか知っているわけですから、点滴の管も抜いてもらいました。わたしが干渉しなかったら、あと数ヶ月生きたかもしれません。後悔はしていません。病院は安らかに死ねるところではない、八〇歳を過ぎた老人の心臓を肋骨の折れるのをかまわず心マッサージするのですからね。父にはそんなことさせたくなかった。二日で二〇万円支払いました。(二〇〇三年死亡)」。 ちなみに、彼女は現役の看護師である。
- 「おばあちゃんが人工呼吸器を入れられています。かわいそうで見ておられません。母が外してください、といったのですが、聞いてくれませんでした。なんとかならないでしょうか」 これは16歳の少女からのEメールである。検索しているうちに、わたしのホームページをみつけたという。たまたま、彼女の住まいからそう遠くないところに、家族の意向に沿った医療をやってくれている病院を知っていたので紹介してあげたが、その後どうなったかは不明。ちなみに、人工呼吸器は一度挿入してしまうと、法的問題が生じて簡単に外せない。
- これは『わいふ』317号から拾った、読者Kさんの投稿である。父親のAさん(87歳)は、グループホームで脳梗塞を発病、その後、病院へ移され、重症に陥るや、また、おなじ系列の療養型病院に移された。以下、要点のみ。
「主治医に、積極的治療は望まないと言ったが、本人の意思が確認できないといって、医師は延命治療を続行した。父は腎臓が弱るにつれ、浮腫がひどくなっていった。腕は足の太さになり、足は胴の太さになった。(もうどう思われたっていい、明日は点滴をやめてくれと言おう)。翌日、医師はわたしたち姉妹の意見が一致していることを確かめて点滴を止めた。数時間して父は死んだ。
姉が用意してきた着物を出すと、看護師に『これだけ膨れたら服は着せられません。入れ歯も無理ですね』といわれた。しかたなく病院の用意した特大を着せた。『ご遺体100キロ以上ありますね』葬儀屋のことばに絶句した。元の体重は50キロ程度だった。葬儀屋から、費用は高いが、エンバーミングという、遺体を元通り修復してくれるところがあると聞き、即、紹介をお願いした。翌日、父は大阪に二軒あるというエンバーミングの処置を施してくれるところに運ばれた。車が揺れる度に、父の体が、まるで皮袋のなかの液体のように揺れるのが分かった。まちがった終末期医療に怒りが込み上げてきた。六時間たって、父の遺体がもどってきたとき、思わず息を呑んだ。みごとに元どおりになっていたのである。入れ歯もちゃんと入り、お気に入りのシャツとブレザーを着て、ほんとうに昼寝でもしているような自然さだった。(2005年死亡)」。
わたしが『延命病棟』を発表したのは1989年だが、その本の発売と同時に「日本医師会」が、老人の尊厳死を容認すると、全国紙を通してでかでかと発表した。わたしの本の内容は発売と同時に過去の話にされたのである。断っておきたいが、わたしは、早く尊厳死を法制化せよ、といっているのではない。
同じ89年、医師の独断的な癌治療を阻止するため、慶応病院の医師、近藤誠さんたちが中心になって、患者の自己決定権(いくつかの治療の方法を医師が示して、それを患者が選択する)の確立を骨子とした“患者の権利法をつくる会”を立ち上げた。わたしもその会員のひとりだが、いまだに“つくる会”の名称のままにとどめられている。尊厳死の前段階の、治療における自己決定権さえ認められていないのだ。患者の自己決定権を中心に据えた安楽死、尊厳死裁判がいかに欺瞞的なものであるか分かるというものである。
いま、超党派の議員の間で、尊厳死の法制化に向けて論議中という。このまま法制化された場合、患者の自己決定権は骨抜きにされかねない。わたしは祖のことに注目してほしくて地裁の示した許容要件を取り上げたのだが、それが実際の現場でほとんど有効性を持ち得なかったのは、検討したとおりである。自己決定権の行使が許された時には、すでに、それを行使する能力を失っている。「日本尊厳死会」が明示している“そのときはお願いします”式のリヴィング・ウイルを想定しているのかもしれないが、それはほんものの自己決定とはちがうのではないか。自分が生きているうちに行使できる自己決定権と、専門家がプログラムした”問題なき死“のためのそれを、厳密に区別する必要がありそうだ。医者の既得権に協力するだけの自己決定権なら要らないと、いまから断っておきたい。
そもそも、安楽死と尊厳死を分けて論議すること自体、同意しにくい。そのときの容態の進行上、尊厳死で済むこともあれば、安楽死まで踏みこまざるを得ない場合もあるだろう。本件のY医師の行為がそれである。彼女は尊厳ある死を迎えさせるために管を抜いたのだが、思いがけない事態が生じ、それを鎮静するため、安楽死にまで手を染めねばならなくなったのである。
(次号完結)