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川崎協同病院事件を通して日本の安楽死裁判を考える(1)

浦瀬さなみ

 

 川崎協同病院安楽死事件の公判が始まった当初は、まさか、自分が海(東京湾)を越えて、傍聴に通うことになろうとは思いもしなかった。いくらなんでも遠すぎた。しかし、知り合いの記者から得た情報から、先の東海大安楽死事件に相当する重大事件との認識で審理が進められていることが分かり、これは自分で確かめなくては、という気になった。というのも、私は先の事件も傍聴していたのである。

 ふたつとも医師による安楽死で、方法として筋弛緩剤を用いたこと、家族の依頼に抗しきれず当行為に及んだことなど酷似している。しかも、本件の廣瀬健二裁判長は、先の事件では右陪席を担当しており、そこで氏の示した安楽死許容要件は、以後、同種の事件の合否性を判断する基準となり、現場にあっては、医師たちの終末期医療のあり方を強く規制してきたという事実がある。

「家族の依頼を振り切るのはつらいが、裁判沙汰にはなりたくないので逃げるしかない」。現場の医師からもらった手紙にあった。裁判官の判断がいちいち現場にはねかえってくるのだから、氏がどのような判断を下すかということは、高齢の自分の親も含めて、どのように死ぬかということと無関係ではない。わたしの本件に寄せる思いには切実なものがあったのである。

 奇しくも、本件は先の東海大事件からちょうど10年目にあたる。その間、海外では、アメリカ(オレゴン州)、オランダ、スイス、ベルギー、オーストラリアなどが次々と安楽死の合法化に踏み切った。その賛否はさておき、裁判官の判断がたとえどんなに立派な生命倫理に裏打ちされていても、現場の状況、時代の趨勢がまったく汲み取られていなければ、その裁判は市民の方ではなく、どこか別のところに向いているにちがいない。マスコミ各紙の発表も裁判所の判断をなぞっただけで幕引きになった。一市民の視点で、わたしがこれを書く理由である。

 

 事件の概要。

 1998年(平成10年)11月2日、気管支喘息の男性患者、Fさん(58歳)は川崎協同病院に心肺停止状態で運ばれた。すぐに心臓マッサージ、人工呼吸を施行。心拍は回復したものの、昏睡状態を維持。呼吸停止して時間が経っていたことから脳のダメージが強く、後遺症は必発と思われた。(救急を担当したK医師の証言)。

 被告のY医師(当時、呼吸器内科部長)は1986年ごろからFさんの主治医だった。四日、出勤して入院の事実を知り、当然ながら、Fさんの治療を引き継ぐことになった。

 6日、昏睡状態は依然として回復せず。でも、呼吸、心拍等は安定したので、人工呼吸器を外した。ただし、気管内チューブ(鼻腔挿入)は、痰詰まり、舌根沈下の危険を回避するため、そのまま残した。

 8日、病状は変わりなく、四肢硬直が強くなってきたため、脳の回復は期待できない、と判断。妻らに「九割九分九厘、脳死状態でしょう」云々と説明。

 10日、高気圧酸素療法を実施する。11日も実施したが、痙攣が見られたため中止、残り2回の予定も中止。妻は「可哀想で見ていられない」。被告は、気管内チューブのちょうど取替え時期でもあったので、妻の前で抜管を試みたが、チアノーゼが出現したため、再挿管した。「残念ですが、管は抜けません」。(被告の証言)。

 12日、昏睡状態は続いていたが、これ以上治療しても回復は期待できず、他方、血圧、脈拍等のバイタルサイン(生存の証)は安定していたことから、家族の見舞いも比較的自由な一般病棟に転出させる。

 13日、Fさんの症状。対光反射なし、睫毛反応なし、痛覚なし、呼名反応なし。瞳孔散大。意識は昏睡状態で変わらず。体温、37度~38.5度。処置として、解熱剤投与、痰の吸引、輸液。

 被告は家族に、今後予測される病状を素人にも分かりやすい表現で、「手足が曲がってくる、痰が汚れる云々」と説明した。立ち合った看護師のMさんは、看護記録に、「家族は諦めた様子」、そして、今後の治療方針として、「ナチュラルコース」(積極的な治療を控え、自然な見取りにもっていく)の意向である、と記載した。

 14日、被告はこの日、病院所属の診療所に出張診療。家族の面会時、血液の混入した多量の痰がチューブから溢れ、家族は仰天して早々に退散。当直の医師が止血剤を投与。

 15日、被告は公休。痰が絡み、血の混じった粘稠痰を多量に吸引。両肺に雑音あり。

 16日、被告、当病院へ出勤。家族が面談を希望していると聞き、病室に行くと、妻が「この管を抜いてください」。被告は「管を抜けば最後になりますよ。これはひとりでは決められません、家族全員の承諾が要ります」と応えた。(被告の証言)。

 午後6時、家族全員(長男夫婦、二男夫婦、長女夫婦と、それぞれの子どもたち、総数10人)が集まったとの報告を受け、被告は准看護師のAさんを伴って、Fさんの病室へ。被告は「管を抜けば最後になります。みなさん、それでよろしいですね」。みんながうなずいたのを確かめて、気管内チューブを抜いた」(被告の証言)。ところが、突然、Fさんがエビ状にのけぞり、痙攣し、痰がらみの気道狭窄音がガラガラと音を立てた。

 子どもたちがそれを見て泣き出したため、悪い記憶を残すことを心配した被告は、痙攣を鎮静させる目的で、セルシン1アンプルを二回、それよりさらに薬効の強いドルミカムを三回、総数7アンプルを点滴の三方活栓から静脈注射するも、なお、痙攣は治まらず、真ん前の詰所に待機していたS医師に相談した。

 S医師は「ミオブロック(筋弛緩剤)がいいよ」、と応えた。PM七時頃、「被告の指示により、わたしがミオブロック3アンプルを静脈注射した」(准看護師、Eさんの証言)。呼吸停止7時3分。心停止7時11分。

 その夕、出勤してきた当直の医師は、死亡したFさんのカルテを見て、ミオブロックが死因になったとしたら問題だ、東海大病院事件のこともあると考え、院長に報告した。数日後、院長は事務長ほか要職を集め会議を開いた。被告からも詳細を聞き、討議を重ねた結果、家族が何も文句を言ってきていないこと、裁判沙汰になったら家族が迷惑するなどを理由に、院内だけで処理することにした。

 それから3年後の2001年10月、麻酔器の使用をめぐって、被告と、麻酔科のT医師との間にちょっとしたトラブルがあり、T医師が、死亡時のFさんのカルテをコピーして医師たちにばら撒くなどしたため、事件が表沙汰になった。院長は、もはや院内では収めきれないと考え、翌年4月、公表に踏み切った。

 2002年12月4日、神奈川県警はY医師を殺人の容疑で逮捕した。2003年4月17日、第一回公判。それから月二回のペースで公判が開かれ、2005年3月25日、判決が下された。

 

裁判の争点。

  1. ミオブロック(筋弛緩剤)投与のくいちがいについて。准看護師のEさんは「被告の指示により、自分がミオブロック3アンプルをワンショットで静脈注射した」と証言したのに対し、被告は「1アンプルを生理食塩水100ccで薄めて点滴した」なお「患者が死亡した時点でまだ三分の二程度残っていたことから、ミオブロックが死因とは言いにくい」と主張した。
  2. 家族の要請があったか、なかったかについて。被告は、Fさんの妻から「この管を抜いて!かわいそうで見ていられない」と言われた、と証言した。妻は「そんな要請はしていない」と否定。「管を抜くのは治療のためと思っていた。入れたままにしておくと、痰が汚れて、手足が曲がる、と被告が言ったので、それで抜くのだな、と思った」(体調不良の理由で、文面での証言)。次に、その子どもたち三人とそれぞれの連れ合いたちの証言「管を抜くぐらいで、なんで家族全員を集めなくてはならないのか、納得できなかったが、医者のいうことだから聞くしかない、と思った」。みんな右に同じ証言をくりかえした。
  3. S医師がミオブロック(筋弛緩剤)投与を被告に助言したか、否かについて。

被告は、ミオブロックの投与については「S医師に相談した」と証言した。それに対して、S医師は「ミオブロックがいいよ、とは言ったが、抜管したものの,苦悶症状を呈したため再挿管したと思っていた」さらに「被告から見取りのために抜管するとは聞いていない、看護師から死んだと聞かされ、おどろいた。被告とはもう関わりたくない、と思ったので、急いで詰所を立ち去った」と証言した。

*ミオブロック=筋弛緩剤は、呼吸を抑制させる作用があるので、挿管の時などに良く用いられる(器械呼吸と、自発呼吸との不調和を無くすため、自発呼吸を止める)。抜管したままで投与すると、自力での呼吸が困難の上にさらに抑制的に働くわけで、当然ながらその患者は死んでしまう。筆者注記。

 で、裁判官の判断だが、1.は准看護師Eさんの証言を、2.は家族の証言を、3.はS医師の証言をそれぞれ正しいと判断、認定した。

 

 判決。地裁は被告に殺人罪の成立を認め、懲役三年、執行猶予五年を言い渡した。「被告は治療に最善を尽くし、回復を待つべき段階にあったにもかかわらず、家族が依頼したとの誤解から、抜管したうえ、筋弛緩剤を打って窒息死させた」と、認定。弁護側が「被告の行為は、Fさんに自然の死を迎えさせるために治療行為の中止としてなされたものであり、実質的違法性ないし、可罰的違法性はない」と主張したのに対し、裁判長は「違法行為を減弱させるような事情すら窺えず、弁護人の主張は採用の限りではない」として、それを退けた。

(次号に続く)