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Hospital Wandering in Formosa 第32回救急時の対応

台湾在住 眞武  薫

ここで救急体制について報告するのは何度目になるだろうか。それでも新たな事態は発生するので、やはりレポートしたい。

筆者は今年、婦人科系の疾患に悩ませられてきた。秋になり少し症状も落ち着いてきたかと思っていたところに、ある日の未明に多量出血を起こしてしまった。まず、一一九番に電話しようと思ったが、ベッドの脇にある電話にさえ手が伸ばせない。その後、学生に、「とても具合が悪いときはどうしますか」と質問してみた。答えは「休みます」、「授業をサボります」といったものであまり緊急感がない。「もっともっと具合が悪いときはどうしますか」とたずねると、「救急車を呼びます」という答えが返ってきた。そのクラスの中で(五〇人程度)、実際に救急車に乗ったことがある学生は一人だけだった。

何もできないと、ただ横になることしかできない。出血は続き、横になって、救急車を呼んだ時間が夕方まで延びたことが良かったのか悪かったのかは分からない。しかし、救急隊の回答に筆者は愕然とした。「清華大学西院三十五号、どこですか? 分かり難いんですよね。西門まで歩いて出てきてくれませんか」と言われてしまった。

確かに本学の宿舎区の番地は続いているところもあるが、急に跳んでいるいるところもあり、熟知したものでないと分かり難い。しかし、何故救急隊にまでそのようなことを言われなければならないのか。「具合が悪くて動けないから電話してるんです。近くに守衛室もありますから、守衛さんに訊ねてください」と言ったが、無駄だった。

こういう緊急時には自宅から一番近い病院を選ぶのが普通であろう。最寄の病院は徒歩約五分、西門は病院との中間地点に位置する。こちらはその五分でさえ歩けないくらいひどい状態だから援助を求めたのに、冷たい返事が戻ってきた。後になって学内の警察隊に頼めばよかったのにと言われたが、当時はそこまで頭がまわらないし、まさか救急隊に「自力で歩いて来い」と言われるなどとは思ってもみなかった。

何とか西門まで行き、救急車の到着を待った。ちょうど散歩をされていたご婦人には親切に付き添っていただき、ありがたかった。救急隊が何ら訓練も受けていないのかというと、そうでもなさそうで、少なくとも筆者が受けた救急訓練よりは高度の訓練を受けていると思われた。もう半分の道のりは歩いているので、まさか徒歩三分足らずの病院へ行ってくれと言うとは思わなかったかもしれないが、「どこの病院へ行きますか」と訊ねられ、答えたのはやはり最寄の病院だった。

失血多量とは言っても意識を失うほどではなかった(かなり朦朧とはしていたが)。水曜日の勤務時間がちょうど終わる頃で、宿舎には誰もいなかったし、一一九番に救助を求める前に、同僚に頼もうなどという考えもなかった。病院に到着すると、誰か知り合いの連絡先を言うように言われる。この時間帯で連絡がとれそうな友人が思い当たらない。「いません」と言ったが、何が何でもという調子で質問され、向かいの宿舎に住む友人のことを思いついた。

いつも用事があるときにはつかまらなくても、こういう時には家にいるものである。救急隊が電話すると、知り合いが電話に出た。仕方なく「具合が悪いので病院まで来てくれない?」と頼んだら、答えは「今晩ご飯作ってて忙しいのよね」であった。ご主人もいらっしゃったようだし、本当に夕食の準備で手が放せなかったのだろう。しかし、この夏退職した身であるとはいえ、彼女はれっきとした医師なのだ。電話をしたことへの後悔と、「わたしのいのちは夕食にも劣るの?」という惨めな気持ちになった。

どうも台湾では何事につけ、直接ではなく、誰かを介したほうがうまく事が運ぶことが多いようだ。救急車にしても、以前見知らぬ人が呼んでくれた時はちゃんと宿舎まで来た。病院に運ばれてからも「家族はどこ?」と何度も聞かれた。しかし、独居生活をしているのは筆者だけではないし、何とも個人に対しての対応はお粗末なものを感じてしまう。以前述べたレポートではないが、患者の家族が何人も寄り添って医療者側に圧力をかけないと、相手は動かないのだろうか。

過去のことを振り返ってみても、救急外来で世話になったという思い出は大抵が患者さんの家族であり、医療従事者から親切にしてもらったという記憶はない。

日本でも緊急時にどこの病院へ運ばれるかで予後に大く影響すると言われるが、台湾はなおさらである。友人に助けを求めても以上のとおりである。

筆者は日本の病院でかなり嫌われ者であるが、こういう経験をしたときに、いつも思い浮かべることばがある。何かの標語だったのだと思う。「みんな同じいのちの重さ」、筆者には常にとても重みのあることばとして残っている。そして、辛い体験をしたときにいつも相手にそう問いたい。「あなたはいのちの重さはみんな同じだと思っていますか」と。

体調不良にオーバーワークが重なると、どうしても注意力散漫となってしまい、怪我までしてしまった。それでも、どこかに楽観的ところがあって、ちょっと落ち着いてから授業で学生に話してみた。「こういうのを{泣き面に蜂}というのです」とかなり自嘲気味に(中国語では{落井下石(井戸に落ちた上に石が落ちてくる、日本語以上にコワイ表現である)}。ところが、学生たちの反応は違っていた。「先生、それではひどすぎます。消防署に苦情申し立てをすべきです」と言われた。

現在、多くの人たちが利己的な生活をしていると感じるようになったが、ちょっとは救われた気持ちになった。

一一月に神戸に友人を訪ねる機会があった。彼女は震災時にご主人を亡くされ、現在一人暮らし。介護保険は受けておられるが、サービスを受ける者としての意見を耳にすることができた。われわれが一般に神戸の住民に持つ印象というのは「震災の後、人びとがより支えあうようになった」ということではないかと思う。しかし、耳にしたのは違っていた。それが言えるのは守り得る自分の仲間内だけのことであり、世間一般の人たちに対してはそんなに優しくはないそうだ。

他人のことまで気遣う余裕がないと言ってしまえばそれまでだが、本当の意味で支えあえる社会になれる基盤をつくることの大事さを痛感した。前記台湾の救急外来においても、他人の痛みが分かるのは経験者である。そういう人たちの経験を大事にしながら、一般の人たちにも浸透させるための法の整備を強く願いつつ、今年は終わろうとしている。

○ 楽生院レポート

12月16日、楽生院代表のCさんや、台湾人権促進会、台北弁護士会の代表のかたがたを空港まで見送ってきました。そして17日に提訴。電子版でしか見ておりませんが、かなり報道陣も集まったようです。皆さんとご一緒できなかったものの、これは大きな一歩で、大変嬉しく感じました。そして、18日に空港へ迎えに行ったときには、皆さんひとまわり大きく強くなられて台湾へ戻られた印象を受けました。

行政院は院の存続に関して18日までに回答をすると言いながら、まだ回答はないようです。しかも、その間に訪れた楽生院は何と一般病棟と居住棟の八階部分に渡り廊下がついていました。「皆さんの要求は聞き入れましたからどうぞ安心して新棟へお引っ越しください」と言わんばかりです。そのため、最近では院の皆さんも積極的に院側へ要求されなくなったと聞きます。

それでも、新居住区へ移れば、皆さんのQOLが落ちるのは目に見えています。エレベーターはあっても、電動車椅子で自由に移動できるスロープはありません。部屋のベランダはとても狭く、電動車椅子での移動は困難かと思われます。「遅すぎた」ということばだけで終わらせてしまってはいけないのです。

また、弁護団の皆さんが入られて、印象に残ったことばがあるそうです。国のハンセン病補償法適用却下に対して、不服の裁判をおこした人たちは、いわゆる「本省人」と呼ばれる方々なのですが、日帝時代以後に院に入所された方や「外省人」と呼ばれる中国から来られた方々も、とても人なつっこく弁護団を歓迎されます。でも、同時に言われたそうです。「院にいるのは日帝時代の患者さんだけじゃないよ。わたしたちもいるのでですよ」と。

この隔離政策が残した傷痕は今も深く深く残っています。日本が責任を取るのは当然だとしても、今台湾にいらっしゃる方々に、自分が住んでいるこの土地にこのような問題があり、このような人びとがいらっしゃることに目を向けて欲しいのです。蒔いた種は日本でも、今も残る無知や偏見を全て日本人が償い、取り去ることは難しいでしょう。楽生院の人たちは、自分自身の問題として、最も身近な台湾の人たちの支えを必要としているのではないかと感じました。

【編集よりの補足】

ソロクト更生園の117名に続いて、台湾楽生院からも25名の方が、12月17日、東京地裁に提訴しました。

この日、台湾楽生院から陳石獅さんが来日され、記者会見で「日本人だと教育され、日本の兵隊として徴兵され、日本の警察によって隔離されたのに、どうして日本人と同じ補償を受けられないのか」と訴えました。

楽生院の移転問題については、日本の法律家182名が、台湾総統府等に対し、入所者の方々の人権に配慮するようにという内容のアピールを12月11日に提出しています。