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Hospital Wandering in Formosa     第30回 第一人称と第二人称の医療

台湾在住  眞武  薫

ふと気付くともう六月、今年になってからいろんなことがあった。医療を受けるときにいつも考えてはいるのだが、「わたし」自身の医療、そして第二人称としての「家族」の医療を改めて意識する出来事があった。

皆さんは病気をされて病院にかからなければならなくなったとき、どのようにお考えになるだろう。私見を述べさせていただけば、第一人称は「怖い」、第二人称は「もどかしい」である。今までそれなりに病気もしてきたし、それらに対する予後というのも、何となくではあるが考えている。しかし、新たな事態に直面したとき、冷静であり続けることは大変難しい。

三月、胸痛発作により、台湾で心臓カテーテルの検査を受けることになった。日本で九年前に受けたことはあったが、その後の治療技術の進歩や台湾と日本の比較はあまりしていなかった。筆者が治療を受けている病院は心臓カテーテルを使った検査や治療ではかなりの実績を持っているようである。それでも侵襲性の高い検査のため、不安でもある。入院の予定日が告げられ、予約手続きをして、二泊三日の検査入院予定となった。

病院側は検査と治療を殆ど同時に行っている様子で、前日の夜、患者をまとめての説明会があった。折りしも台湾では総統選挙の前で、院内も選挙一色という感じだった。三月十九日の陳水扁銃撃事件のニュースを見て、行かないつもりにしていたのに、結局は投票に行った患者さんが少なからずおられた(筆者は二十日投票日に退院した)。

前夜の説明会は治療を受けられる年齢層から考えて台湾語話者が多いため、ビデオも説明も台湾語で行われた。筆者は説明会を行った看護師から、北京語の説明をし直してもらった。個別に行われないという意味では患者のプライバシーにかかわりそうではあるが、集団の利点もある。施術者は誰かとか、方法(太股からのアプローチか腕からのアプローチか)など、いろいろな意見が出て、初めて検査・治療を受ける患者の不安を感じた。

本来入院前になされるべき説明なのであろうが、入院すると同意書とともにステント自費治療同意書及び値段表なるものが配付された。以前、心臓カテーテルについて友人のお父様の報告をしたことがあるが、今考えると、それはカテーテルではなく、ステントの料金だったのだと思う。

普通検査をして冠状動脈に75%以上の狭窄が見つかれば、PTCA(バルーン療法)ではなく、ステント留置術を使うのが普通だそうだ。ただ、このステントは台湾では健康保険が効かない。台湾は混合診療であるため、保険の効かない医療を受けるときは、保険の効かない分だけが自己負担となる。しかし、ステントの値段は高額だった。一覧表に色々なメーカーの商品が書かれているのだが、価格は殆ど同じで、一本約四万元(約十三万円相当)だった。

ステントが健保適用ではないと聞き、驚く患者は多かったが、病院も「ステント治療が必要な患者」と診断をし、入院を勧めているようで、同意しない訳にもいかない。日本の医師に連絡して日本と台湾の場合を比較してみた。一番大きく異なるところは日本では検査をして、必要が見つかれば次のステップで治療となるケースが多いのに対して、台湾は検査即治療という流れである。幸いに狭窄は見つからず、バルーンもステントもしなくてよかったが、一時は経済的負担の心配や、予後の心配をすることになってしまった。

日本でもちょうどシロリムス溶出性ステント(薬剤溶出性ステント)やアスピリンと併用するクロビドグレスという薬剤で、再狭窄発生率がかなり引き下げられることで話題になっていた時期であった。日本でもこれらはまだ健保適用はないが、台湾も同じである。普通のステントに比べ非常に高価なため、台湾の医師の話しでは「高すぎる。これを使うなら一体名人の患者さんが救えると思っているのか」ということであった。しかし、再狭窄が大変問題となっている今、将来の発生率を考えれば、一日も早い健保適用を望む。

結局は看護師も同意書を受け取りに来なかったため、二枚の同意書は提出しないままだ。また、筆者自身の具合が悪くなったことから、普通の患者さんの四倍もの期間である十二日間も入院してしまい、病院はまさに選挙でごった返し、二人部屋では支持政党を巡り、患者が自身の疾患以上に熱くなっていたように思う。

いろいろと病気はあっても、新たな症状が出たり、新たな疾患が見つかり予後の危険性などが告げられると、やはりかなり動揺してしまう。こころのどこかで恐怖心が湧きあがってくる。

その後に告げられたのは、急な母の脳梗塞と入院。近くてもすぐに飛んでいけないのは、本当にもどかしい。病気についての知識もそれほどない。まずはインターネットで検索はしたが、日本の脳循環疾患に対する治療はとても遅れているという気持ちになった。いたたまらず電話した日本の神経内科医には「運を天に任せるしかない」と言われ、愕然とした。台湾の神経内科医には「すぐにカルテのコピーを取り寄せろ」と言われたが、日本に住む家族は、「自分達には知識がないし、主治医がそうおっしゃるのだから、従うしかないでしょう」と言った。主治医には「うちではカルテの開示は原則的にしておりません」と言われた。

同じく第二人称とはいっても、家族の受けとめかたはいろいろだ。もどかしさはつのるばかりで、病院に電話してみる。海外にいる旨を説明したが、詳しいことは電話では話せないという。カルテの開示について訊ねても、「うちでは原則として開示はしておりません」と言われた。こうなったら自分の精神衛生のためにも一時帰国するのが一番よいという結果となった。

主治医は患者の希望にあわせて随時説明ができる訳ではないということで、日本にいる家族もそれほど現状把握はできていなかった。たまたま主治医の説明が予定されていた日に帰国できたので、かなり話しは聞けた。それでも、日本の現在の治療の動向と照らし合わせて、その病院の治療法がどんなものなのかということを詳しく聞くことはできなかった。ネットで見た治療法を言っても、「自分自身には経験がないし、うちの病院ではやっていない」という情報しかもらえなかった。

これらもなるべく簡潔に質問できるよう紙に書いてきてはいたのだが、なかなか質問の機会を与えてくれない。同席していた看護師に言われた。「あの、質問あと何分ぐらいかかりますか。後にも別の患者さんの説明がいらっしゃるんですけど」。勿論、医師側が伝えたい情報もあるだろうが、患者本人や家族が聞きたいことだって沢山ある。

もし患者がどこかの知らない弟三者ではなく第二人称になったとき、「ああそうですか」とすぐに言えるだろうか? 仕方ないことは沢山あったとしても、それをどのように知り、どのように受けとめるかは、医師患者双方の理解が不可欠だ。尤も、最近では患者も病気のことをもっと知り、学び、自分で選択するようになってきた、といえようが、患者側が自分で知り得る医学的知識にも限界がある。そこをうまく橋渡しするのが医師ではないのか。

自分自身が病気になったとき、大事な家族が病気になったとき、われわれは恐怖や大きな憤り、無力感を観ぜ感じずにはいられない。全ての患者を第一人称的、第二人称的に見るのでは医師の負担が大きすぎるかもしれないが、自分自身や身近な家族のこととして病気を捉えれば、医師・患者間の意思疎通はもっとうまくいくのではないかと思った。

○ 再びおまけ

四月号に久保井さんが記されているよう、現在台湾のハンセン病療養所、楽生院での調査が行われています。高速道路や鉄道沿線にないため、筆者が住む新竹からの移動に時間がかかり、少しでも時間がある折りに、行きたいと思ってもなかなか行けないのが非常に残念です。

久保井さんの記述のとおり、1930年に建てられたこの日本時代の建物は、今、歴史の中に葬り去られようとしています。台北新交通システムMRT(中国語で<捷運>)の駅だけではなく、工場まで作ろうという計画のようです。

多くの患者さんは、この土地が売却されたことも告げられないまま、突貫工事で建設中のすぐ隣のビルに移らなければなりません。筆者が初めて楽生院を訪れたのも久保井さんと同時期だったため、敷地の半分は工事現場と化していました。そして、院へ足を運ぶたびに、工事中の範囲は広くなり、現存する日本時代からの建物は少なくなってきています。

台湾でもこの建物を残そうとする動きがあるようですが、今のところそれは記念館的なもののようで、今ここに実際に入所者がいらっしゃることはさして問題視されていないようです。療養所の一番の主人公は入所者の皆さんです。戦後に建てられた建物を含め、ひとつひとつと姿を消しています。

新しい建物は総合病院と併設されるもので、玄関側に外来や一般病棟、山手のほうにハンセン病施設ができます。往来は勿論自由でしょうが、現在二つの棟を結ぶものは何もなく(後で渡り廊下が造られるのかもしれませんが)、やはりある種の「隔離」に近い状態を感じてしまいます。これで、入所者の皆さんのQOLが維持できるのでしょうか。

中国の方(台湾人を含め)はよく「仕方ないよ」ということばを口にされます。それはある意味「自然」に逆らうことなかれ、という偉大な中国の先人たちの思想でもあると思います。このビル建設に関しても、多くの入所者が「仕方ないよ」と言われます。でも、本当にそれでいいのでしょうか?

かつて日本がそうしてきたように、患者さんを隔離し、一般社会から隔絶することによって、ハンセン病という病気を葬り去ろうとしているような気がします。それは、1960年代に入所された方が、治癒して家へ帰ったものの、本人の不在時に院の職員が家族を訪れ、ハンセン病の怖さを語ったということに顕著にあらわれていると思います。結局、この方は家にいづらくなり、院へ戻られました。日本の統治が終わってからは、比較的自由な印象を受ける台湾の療養所にあって、このことばは重くのしかかってきました。

院へ足を運ぶたび、入所者の皆さんは第三人称ではなく、第二人称へと変わってゆきます。