権利法NEWS

台湾に行って来ました

福岡 久保井 摂

けんりほうニュースにほぼ毎号原稿をいただいている眞武さんを頼って、先日、台湾に行って来ました。目的は、日本の植民地時代、1930年に設立された国立ハンセン病療養所楽生院を視察することです。

今、同じく日本の占領下、韓国のソロクトにある療養所に収容された方々が、日本国内の療養所に収容された元患者たちと被害は同一であるとして、ハンセン病補償法に基づく補償請求を行っています。

敗戦前の日本によって強制的に収容された点で、楽生院はソロクトと何ら変わるところはありません。そこで、まずは現状を知ろうと、現地を訪ねてみたのです。

台北空港からさほど離れていないということで、眞武さんがチャーターして下さったタクシーに乗り込み、地図を便りに向かいましたが、なかなか分からない。療養所にしてはえらく街なかにあるなあと思いながら、道行く人に尋ねても誰も知らない。立ち往生していると、学生らしい女性が声をかけて来ました。

今、そこの会合から帰ってきたところだ、というのです。聞いてみるとほんのすぐ先にありました。

門をくぐってみてびっくり、いくつかの施設は既に取り壊され、隣の敷地でビルの建設が始まっていました。療養所の敷地がモノレールの敷設予定地となっていて、この九月には新設ビルに移転する予定とのこと。

今こそ周りに街が迫り、賑やかな界隈ですが、設立された頃は山の中、とても寂しい環境だったといいます。傾斜の急な斜面を拓き、手前に事務棟、その奥に治療棟、そうして更に奥に患者地帯との境があって、重病棟、標本室、その裏には最重病棟、死体安置室、解剖室とつながる重々しい建物。左手奥を上ると納骨堂、右の端には監禁室、と、正に日本の療養所を移し替えたような構造でした。

眞武さんが事前に施設の方から名前を聞いていた、日本語が堪能な入所者の方を、どうにか訪ねあて、その方の案内で、植民地時代に収容された方々を訪ねて回りました。現在楽生院には200名あまりが入所しておられ、うち日本時代の収容者は十数名とのこと。もちろんどなたも大変高齢です。

すぐ近くの住民さえその存在を知らなかった事実が端的に示すように、楽生院はその歴史を知られることなく、消え去ろうとしています。

入所者の話をうかがうと、警察や役人に連れられ、お召し列車や収容船での収容、繰り返された恐ろしい伝染病との宣伝と、同じ政策が展開されていたことが分かります。

ケーブルテレビで日本のニュースや日曜時代劇を欠かさず見ているというCさん、日本でのハンセン病訴訟やその後の経緯についてもよく知っておられました。日本の元患者と同じ被害を受けたのだから、謝罪をしてほしい、この方々が生きているうちに名誉を回復させてほしい、という言葉が胸に響きました。