福岡市 久保井 摂
12月に福岡地方裁判所に、ある訴訟を提起しました。個人情報としての医療情報の重要性を訴える裁判です。訴えを起こした日に報道機関に配布したペーパーを、ここにご紹介します。ご意見をいただければ幸いです。
1、事案の概要
(当初事件の概要)
1998年4月にIII期の乳癌と診断され、左乳房の非定型的切除術(大胸筋を温存する乳房切除術)を受け、術後放射線療法、化学療法、ホルモン療法を受けた女性(当時歳独身)が原告です。
放射線照射のために、乳房切除した左胸の皮膚は放射線やけどを起こし、変色と皮膚硬化が生じており、まだ若い原告が当然ながら望んだ乳房再建では(乳房再建では第一人者から受けたにも関わらず)有効な効果を得ることができませんでした。背中の筋肉(広背筋)を胸に移植する方法による再建術を受けた今も、変色した皮膚と移植した皮膚がつぎはぎの醜い状態で、鎖骨の下が深くえぐれています。その上不必要なリンパ節廓清と放射線照射のため左腕のリンパ浮腫にも苦しんでいます。
原告は、医師から、III期のがんだから術後に放射線療法や化学療法が必要だとの説明を受けて、これらの侵襲性の強い治療を受けました。
原告の腫瘍の病理検査結果は、非浸潤性乳管がんでした。
乳がんの治療法は、腫瘍の病理組織学的検査結果によって決まるとされています。非浸潤性乳管がんというのは、腫瘍が乳管の中にとどまり、乳腺組織に浸潤していないがんで、通常は乳房を切除してしまえば治癒し、放射線照射や化学療法は必要ないとされています。
ところが、主治医は、術前の感触でIII期のがんだと決めつけ、病理組織学的検査結果が出る前に、原告を放射線照射目的で国立病院に転院させ、放射線照射を開始し、検査結果が出てもそれを改めませんでした。
原告は、主治医が標準医療を行っていれば放射線照射を受けることも、化学療法を受けることもなかったとして、今年4月に手術をした医師の勤める病院と放射線照射を行った国立病院(国)を相手取って損害賠償請求訴訟を提起しました。
(今回の事件の概要)
原告は、毎日毎夜醜い自分の胸を目にするたびに深い悲しみと絶望にさらされる日々を送ってきましたが、誤った医療のために被害を被ったと知ったときから、強い医療不信に陥り、それまで経験したことのない憎しみの念を抱くようになりました。そのストレスは原告をさいなみ、夜も眠れず食欲もない日々が続きました。今年に入ると体調が急激に悪化し、訴訟準備をしていた今年3月に診察を受けた結果、思いがけないことですが、再発していることが分かりました。
直ちに入院して抗がん剤治療を受けることになりましたが、被告らに対し、誤った医療により多大な苦痛を被らせたことについて真摯な謝罪を求めたい、と強く願い、きわめて困難な状況下での訴訟提起を選択しました。
現在の主治医は、原告の再発がんの治療を開始するにあたり、執刀医(被告病院医師)から原告の腫瘍の切除標本を入手する必要がありました。上述したとおり、乳がんの治療は腫瘍の病理組織学的検査結果をもとに決定されるものであり、再発がんにおいては、原発がんの病理検査結果が治療にとって必要な情報を提供するものとなるからです。
そこで、主治医は原告の同意を得て、執刀医に原告が再発したこと、その治療のために切除標本を借り出したいことを伝えました。その後、主治医は執刀医に再発が判明した時点での原告の検査結果を資料(6枚)を添えて報告しています。
主治医は、この報告書を執刀医に送付することについては、原告の同意を得ていませんから、この行為自体が原告のプライバシーを侵害するものです。
ところが、被告は、かかる違法な方法で入手した原告の医療情報を、答弁書に詳しく引用し、これらのデータが示すものは「進行乳癌の転移である」と述べ、末期状態であると決めつける内容の主張を行いました。後には検査報告書を書証としても提出しています。
答弁書に引用された検査結果の多くは、主治医が原告の受ける打撃を恐れて原告には詳しく伝えていないものでした。答弁書での引用という形で、それまで知らされていなかった自分の病状を、しかも事実をさらに誇張した表現で突きつけられた原告は、病室でパニックに陥りました。涙が止まらず、夜中でしたが主治医を呼んでもらい、責めました。主治医の弁明にもその哀しみとショックはおさまらず、主治医への不信感が生まれました。
第一回口頭弁論期日において、私たちは被告のかかる行為について強く非難し、二度とこうしたことのないように求めました。
また、原告の病状が抜き差しならないことから、訴訟の進行としては異例なことですが、何よりもまず原告本人尋問を求め、7月に原告本人尋問を実施しました。
ところが、10月に入って、問題の医師が再び主治医から医療情報を入手していた事実が判明しました。それも、原告本人尋問の直前に電話で問い合わせ、主治医から報告書の送付を受けていたことが分かったのです。
たまたまその事実を知った原告は、さらなる苦痛を受け、主治医をはじめとする医療機関への不信感を一層募らせています。これら一連の執刀医のプライバシー侵害行為によって被った精神的苦痛に対する損害賠償を求めるため、今回、訴えの追加的変更の申し立てという形での追加提訴を行いました。
2、本事件の特徴
個人の治療にかかる医療情報は、プライバシー性の高い個人情報です。そのために医師には守秘義務があり、その違反は秘密漏泄罪を構成します。世界医師会リスボン宣言でもその趣旨は明らかにされているとおり、これは国際的にも一致した見解です。
ところが、患者の権利が明確に認識されてこなかった医療界においては、患者の医療情報が個人情報であり、患者本人の同意なくして漏らしてはならないということが明確に意識されてこなかった嫌いがあります。
医療過誤訴訟において、被告となる医療機関は、しばしば、本件のように、たまたま被告での治療前ないし治療後に原告を診療した医療機関から入手した情報を、主張において引用したり、証拠として提出したりしています。これは、明らかなプライバシー侵害行為であり、訴訟上の立証活動だからといって正当化されるものではありません。もしそのようなことが許されるならば、原告は、医療被害を被ったばかりでなく、被告が非を認めない場合には責任を追及するための唯一の手段である医療過誤訴訟を起こすに当たって、常にプライバシー侵害という新たな被害を被ることを覚悟しなければならないことになります。
代理人としては、そういう医療機関の誤った認識をただしたいという思いもあり、原告の希望を受けて、今回の追加的訴えの変更に至りました。
本件のように、医療機関に対し、個人の医療情報の侵害のみを不法行為として訴える例はまれだと思われます。特に、訴訟行為に関連して被告医療機関が行った行為をプライバシー侵害として訴えるものとしては、おそらく最初のケースとなるのではないでしょうか。
医療情報をめぐる問題は、現在、厚生労働省のもとに設置された検討会でも議論されており、昨年から実施され、今年さらに改訂された日本医師会のカルテ開示ガイドラインにも見られるように、意識が大きく変化しつつあります。今回の訴えにより、個人情報としての医療情報の重要性についての見識を問いたいと考えています。