台湾在住 眞武 薫
九月号の編集後記にあったが、「日本医師会雑誌」の「セカンドオピニオン」の記事は嬉しいものであった。患者と医師とが医療情報を共有できる日が少しずつ近づいていることを感じさせられた。しかし、このような理念のもとでも実際は大きな壁にぶつかることが多い。
この夏ご本人自ら医師でありながら、お嬢さんを医療事故で亡くされた久能恒子さんという方と知り合う機会があった。久能氏の著書は中国語に翻訳され、台湾でも出版されており、日本からわざわざ中国語版を送ってくださった。
現在の審理の状況は詳しくはわからないが、著書の中で述べられている内容は相当ショッキングなものであった。専門分野は違っていても、患者の家族が医師であればもっと違った対応をするのではないかと素人目には映るのだが、現実は異なっていた。「セカンドオピニオン」の記事の中にある「医師にとっては自身の診療を他の医師に評価される緊張感を伴う行為だが、むしろ常に他の医療専門家の目に晒されているという意識をもつことによって研鑚し、異なる立場のコメントにも謙虚に耳を傾けるべきである」ということが全くなかったのだ。
医師同士でありながら、医療情報を共有したり、納得のいく説明を受け、同意のもとで医療行為がなされたとは思えなかった。お嬢さんの手術の立ち会いへの拒否、曖昧な説明、相手を尊重しない態度などなど筆者が感じたところは枚挙にいとまがない。そこで、ある知り合いの開業医に尋ねてみた。「もしご家族が自分の専門分野でない疾患に罹患して、疑問に思うことがあっても直接相手の医師には尋ねにくいですか」と。
答えはイエスだった。「どうも相手の医師に失礼ではないか」とか「こっそり自分の知り合いの医師に聞いてみる」とか言われた。医師同士でさえ医療情報を共有したり、他の医師の評価に晒されることについて非常に閉鎖的であることが分かった。筆者は七年前に日本で心臓カテーテルの検査を受けたことがあるが、消化器内科から循環器内科に移るとき主治医に言われた。「この病院では一年あたりどれくらいの患者さんにこの検査を行っているか。また失敗した症例がどのくらいあるか」などなどこと細かに検査の安全性、所要時間等を聞き、十分納得してから検査を受けるようにと。この質問に対して循環器内科は丁寧に説明してくれた。
七年前にこのような経験をしながら、今でもなお十分な説明や理解をして医療情報を共有するということに消極的な医師がいるということには驚いた。同じような質問を台湾の医師(勤務医)にもしてみた。ちょっと変な答えだった。「患者の家族が医師だから特別に手術を見せてくれとかカルテを見せてくれというのは医師の職権濫用に他ならない。もし、普通の家族であればそのようなことは思いもしないだろうし、およそ聞くことはないだろう」と。そのような行為自体が医師の傲慢さに通ずるような考えを述べられた。
患者の家族が医師であれそうでないにせよ愛する家族によりよい医療を受けさせたいというのは当たり前のことだろう。医師は患者側に十分理解できる平易なことばで十分な説明をするべきだし、それに対して患者側が納得しないならば率先してセカンドオピニオンを促すべきだと思う。このような考えの医師たちは確実に増えているが、そうではない医療者もまた多く存在する。
また夏休みに日本で入院した時の印象深い出来事もある。八月号の記事で述べさせてもらっているが、入院に際して、筆者は当直医とのやりとりで摩擦が生じた。メンタルヘルスセンターに行ってからの医師の対応は有難かった。その医師は自ら内科の当直医に電話してくださり、内科の医師の対応のまずさを指摘してくださったのだ。
それは専門領域を越えても同じ大学での教育者であるという立場からなされたものなのか、当該医師の人道的配慮からなされたものなのか、また他の意味があったのか筆者には分からない。それでも即座の対応にはとても感謝した。今までの経験からいうと、「これは内科の範囲ではないから、相手の先生とよく話し合うように」とか言われるだけで、直接の働きかけがなされることはなく、お互いに譲りあっているのか尊重しあっているのかはたまた回避しあっているのか分からなかった。
それでも筆者が接し、有難く思った経験がきわめて例外的なものであることは問題である。医療者の行っている医療が世間一般、或いは他の医療者から見ればどうなのか。自分の行っていることに責任と自信を持っていれば、他からの評価を受けることはむしろプラスの出来事として捉えられるべきである。これは単に相手を批判したり、酷評したりするのではなく、よい意味での切磋琢磨を意味する。
このような機会を得ることにより、医師の間にもより良い緊張感が生まれるであろうし、患者側の意識を高めるのにも役立つと思う。中国語に〈教学相長〉ということばがある。教える方も学ぶ方もお互いに向上していくという意味だ。相手の評価に神経質になるのではなく、医師同士、ひいては医師・患者間もそうであって欲しい。それは一人ひとりの意識を変えてゆくという小さなことから、すぐにでも始められるのだ。