権利法NEWS

第12回総会記念シンポジウムに参加して

東京都  漆畑 眞人

街の樹木は美しく色づいていた。11月16日土曜日の昼下がり。秋のよく晴れた日だった。
東京・四谷の弘済会館は、大きな新宿通りに沿って、聖イグナチオ教会、上智大学の前を進んでいくと見えてくる。大きな建物だった。
千代田区なので、歩道面のあちこちに、歩きたばこやポイ捨て禁止の標識が描かれていた。
エレベータで4階へ上がると、いくつもの大小会議や祝宴が開催されていた。当会会場の「菊の間」は、100名以上が入れるところだった。
参加者の人数は、それほど多くはなかった。三人がけ長机に、1~2名ずつゆったり腰掛けて、いちばん後ろの壁のほうまで、席が埋まる程度だった。はじめて参加した人や、いつも参加している人、久しぶりに参加した人など、多様だった。

シンポジウムのテーマは「患者の被害・苦情の公正な解決を求めて」だった。まず基調報告に、池永満さんが「患者の権利運動の現状と課題」と題して、運動初期からの歴史と意義を交えて講じられた。その後、2つの側面から運動報告がなされた。
一つは
「患者の権利オンブズマン活動の拡大を」であり、過去3年の実績をもつ「福岡の実践」を吉原幸子さんが報告し、2003年からのスタートに向け「東京の挑戦」を土屋眞知子さんが報告した。
もう一つは
「医療事故の防止補償のシステムを」であり、事故報告のあり方を中心として「法律要綱案骨子と運動の現状」を鈴木利廣さんが報告し、「被害者運動の視点から」医療事故市民オンブズマン・メディオの活動経過を阿部康一さんが報告した。
最前列からも、最後列からも、積極的な発言がなされた。関心と期待の高さがうかがえた。

課題の一つとして、市民団体などの運動体相互や行政との連携問題が浮上した。必ずしも目的や方針の一致があるわけではないため、合体は難しいが、それぞれに活動の守備範囲があり、適宜、紹介しあって連携している。池永満さんが言われるとおり、大前提として、住民ひとり一人が患者の権利に関して意識改革していくことが重要であり、現段階では多角的な運動体により住民がボランティア等で参加する機会が多く提供されることにより、活動を通じて意識改革が図られていくことに意義があると思う。

私は病院でソーシャルワーカーをしている。この仕事は、社会福祉、社会保障に関する相談を受けて、ひとり一人の生活の安定を支援する。つまり、傷病や障害その他の生活上のハンディキャップを抱えていても、その人らしい安定した生活が送れるように制度活用などを支援する。
WHO憲章(条約)では、こうした「社会的福祉」も「健康」の要素であるとしている。単に、診察室の中だけの「健康」や検査データだけの「健康」はありえない、社会的にうまくいっている状態がなければ「健康」とは言えない、という理解が国際的コンセンサスとなっている。ここにも患者の権利がある。この論点は、通院場面のほか、もう退院してよい、という場面で問題になることが多い。つまり、在宅での療養生活を送る条件が、介護や家事、建物構造や生活用具、在宅医療や訪問看護、家族や地域との交流、生活費用などの点で整っているか、という配慮の必要性である。しかし、現実の病院の中では、そんなことまで心配していてはキリがない、という声も聞かれる。

また、社会保障の一環として「医療保障」の相談がある。医療費の支払困難に関するものが件数的には多い。今回のシンポジウムでも明示されたが、ほんらい医療を受けて健康になる権利は、基本的人権(生存権)である。つまり、単に私人間の自発的な契約によって生ずる権利ではなく、国が責任をもって保障する国民の固有の権利である。医療機関は指定を受けてその給付を担当し、国(ないし保険者)の法的義務を代行している。その所定のルールに従った医療給付について、所定の算定方式に従った診療報酬請求ができる。相談にのぼる医療費とは医療の対価ではなく、給付の一部負担であるから、制度上は一定の条件の下に減免などの手続きが用意されていることがある。また、医療機関は、さまざまな種類の公費負担医療についても、その給付を担当している。支払問題については、これらをケースにあわせて活用する。つまり、給付担当機関のソーシャルワーカーとしては、利用者国民が適正な給付を受けられるようにするのである。

しかし、相談は単に支払問題にとどまらない。「医療受給」について、さまざまな不安・悩み・苦情のかたちで現れる。ここにはどのような権利が隠れているのか。そこで、どのような内容の「医療保障」がなされているのか、という視点で考える必要があると思っていた。

今回のシンポジウムでも中心的論点に含まれていたのは、とくに医療者の説明義務や、説明内容の担保(カルテ開示など)、医療や療養生活に関する患者本人の決定権は、どのようになっているのか、ということである。(なお、事後の報告や救済についても重要論点である。)

「医療保障」が生存権(健康)を実現するためのものである以上、医療行為自体が安全で有効なものであることはもちろんである。しかし、それと同時に医療者からの報告や説明を受け、その情報と患者自身の価値観とにしたがって自己決定することも保障されていなければならないはずである。

なぜならば、かつて大日本帝国憲法(明治憲法)の下では、国民は「臣民」とされており、戦時中は、負傷した場合に、陸軍病院や海軍病院に入院して軍医から治療を受けることさえも「任務」とされた。軍医の命令による医療に服従することが強制されたのである。しかし、現行憲法になってからは、国民はみずからの幸福追求のために生きる自由があり、医療を受けることは「任務」ではなく、「権利」となっている。しかも法的権利にとどまらず「基本的人権」である。したがって、たとえ法律によっても奪い得ない。国民であるひとり一人の患者は、みずからの医療を受ける権利を行使することになった。この権利行使を手続き的にも保障しようとすると、みずから意思決定をするために必要な情報は、操作的に隠蔽したり欺罔されることなく、必要十分に明示されなければならない。また、意思決定は威圧的ないし脅迫的な環境下で歪められることのないようにしなければならない。そして、最終的に意思決定をする「権限」は、患者本人にあるのであって、権利主体でなく義務を履行する側の医療機関にはないからである。

また、今回のシンポジウムでは触れられなかったが、「医療保障」は、転院をする場面でも問題となる。これは地域の医療提供体制の整備が遅れていることが、問題を深刻化させている。医療効率と医療機能の分化から、転院問題が生じる。病状が次の段階になって、担当する医療機関が変わると言われる。しかし、医療機関ごとの役割分担にもとづいて医療連携をしようとしても、医療の連続性を保つことができるような医療機関の地域配置ができていない。費用負担、距離、療養環境など納得し安心して転院できる医療機関が、地域内に用意されていなのである。病院内の現実としては、転院がスムーズにいかないのは、患者や家族の責任にされがちであるが、医療保障の不備にほかならない。

以上が「医療保障」の内容になっているものと思われる。このような理解で、日常の医療保障相談に対応している。

しかし、以上についても、医療者側には、必ずしもつねに同じ理解はない。ここに大きなギャップがある。

今回のシンポジウムに、はじめて参加された方が言われていたように、患者が権利行使をすると、面倒な患者、問題患者などのレッテルを貼られて、事実上、医療を受けにくくなってしまうことがある。同様にソーシャルワーカーが代弁をすると、民間病院などでは仕事を継続しにくくなってしまうことがある。そのような病院の医療者側は、ソーシャルワーカーではなく、患者がつべこべ言わずに医療方針や退院・転院に従うように説得する職種、および経営のために医療費の未収防止と入院期間の短縮(短いほど診療報酬が上がる)を図る職種が必要とされるのである。今回のシンポジウムでも重視されたものとして、医療者側の養成と施設内患者権利支援担当者の設置の論点がある。養成については、大量養成の問題と養成課程(学習内容)の問題とがありうることが確認されている。また、施設内患者権利支援担当者の設置が法的に義務づけられるならば、ソーシャルワーカーが解雇の不安なく代弁支援をすることができるであろう。

今回のシンポジウムでは、患者の被害・苦情の公正な解決に関して、現状と方向を再確認するとともに、患者の権利の啓発、事故予防、救済など、さまざまな課題を明確にすることができた。そして、患者の権利法のいっそうの必要性と、この問題への関心と期待の高さが明らかになったと思う。今後も、権利に目覚める患者をますます増やして支援していくために、このようなイベントや啓発事業、書籍などを通じて社会的にアピールしていく必要があると思う。