長島愛生園 千 葉 龍 夫
【編集部より】
千葉龍夫さんは、瀬戸内海に浮かぶ長島にある国立ハンセン病療養所長島愛生園の入所者で、ハンセン病違憲国賠訴訟の原告です。
熊本判決確定の日、記者会見の場で両手を高々と掲げ、「やっと人間になれました」と叫んだ彼の姿を胸にとどめている方も多いのではないでしょうか。
幼くして強制収容された彼は、故郷の家族を襲う厳しい差別偏見のため、何十年も家族と断絶していました。
訴訟の当初、親兄弟と連絡を取る気はないと言っていた彼ですが、判決確定後の昨年夏、母親探しをはじめ、ついに四十年ぶりに母との再会を遂げました。
去る1月30日、ハンセン病違憲国賠訴訟は、入所歴のない原告や遺族原告に対しても、国が法政策の過ちによる責任を認めて謝罪し、一時金を支払うことにより、裁判上の全面解決を果たしました。
和解に基づく厚生労働省との協議を経て、社会復帰支援策や退所者給与金など、十全ではありませんが、失われた人生の幾ばくかを取り戻すためのシステムも動き始めようとしています。
千葉さんは、この春、療養所を出て、大阪でお母さんと暮らすことを決意しています。この手記はその決意表明として、『ハンセン病国賠訴訟を支援する会』の『支援する会ニュース一三号』から了解を得て転載したものです。快く応じて下さった千葉さん、支援する会に感謝します。
今にして思えば、どえらいことをしたもんだ!と我ながら感心する。
無我夢中で走りに走って、一息ついて振り返ると、相手は倒れていた。
ハンセン病を病んだ名もない原告たちが、国という巨大な相手に闘いを挑み、完膚なきまでに打ち負かしたのだ。こんな痛快なことはもう二度とない。
誰の目にも明らかに間違いであるはずの「らい予防法」が90年も続いたことに法曹としての責任を感じたのは九州の弁護士たちだった。そして熊本から国の犯罪を追及する「ハンセン病国賠訴訟」の火の手が上がった。
それに関東、瀬戸内が続き、それにあわせて支援の輪が全国に拡がって行った。この慈愛の心に満ちた人たちにどれほど癒され、勇気づけられたことか。この場をお借りし、厚く御礼申し上げたい。
さて私にとって社会復帰の条件として望むものは、不安のない医療、安全で経済的な住宅の確保、スムーズな人間関係のもてる地域社会の受け入れ体勢などが柱になると思う。
住宅の確保はもちろんのことだが、医療のことが最大の気がかりである。
「らい予防法」があったため、一般病院にはハンセン病を知る医師はほとんど居ないのが実状だ。ハンセン病は、治癒した者でも後遺症としてマヒなどが残り、専門的な知識をもたない医師には的確な診断、治療は極めて難しい。とくにマヒという厄介な症状を理解できなければ、わずかな傷でも適切な治療は、まず期待できない。
だから、私たちがお世話になる医療施設には少なくともハンセン病を知る医師、看護婦がそれぞれ最低一人は勤務している状況でないと安心して診断、治療を受けることが出来ないことは判ってもらえると思う。
住宅は大阪府が府の物件として、現在(一月末)、探してくれているが、私の場合は、平屋建て一戸建ちを希望している。
裁判には勝ったがハンセン病に対する偏見・差別がそう簡単に消えるとは思えず、集合住宅では疎外され孤立するようなことになると関係修復はまず不可能だろうと不安を覚える。贅沢ではなく、これが一戸建ちを強く希望する大きな理由である。
手などの後遺症のほか左足が義足で、階段の昇り降りにはかなり苦労する。高層を嫌うのはそれだけのためじゃない。私は生来の怖がりなのかもしれないが、階段をまえにすると、50年も隔離されている間にしみついた本能的とも言える恐怖を感じてしまう。恐らく一般の人たちには理解してもらえないだろうが……。
それと同時に、交通の便がよく、駅の近くを希望する。これからの府との折衝に期待したい。
そして地域での人間関係に大きな期待をもつ。石もて追われた大阪だが、ふるさとの人たちの心の温もりを信じたい。
偏見・差別は無知からくるものである。これから復帰するに際して、地域の人たちに偏見・差別を打破する努力を望みたい。
幸いなことに私には、多くの味方が居ます。裁判をともに戦ってくださった支援の方の力強い応援を背に感じています。
多少の不安はあるとはいえ、待ちに待ったふるさとでの生活、人としてごく普通に暮らせたらどんなにいいか…。今から胸のときめく思いです。
4月1日に復帰すると、前宣伝をしておりましたが、大阪府の前向きな取り組みもあって、より細かな打ち合わせが必要になり、弁護団の意向もあって5月10日に復帰することに決めました。
私が大事に思うのは、人と人との繋がりです。残りの人生を、支援の方たちに友としてお付き合いねがえたら、真の人間回復を果たせたと思えるのじゃないでしょうか。
私は大阪へ帰ります。