真 武 薫
最近は少しずつ変わってきているとも思うが、日本では名指しの紹介状でもない限り、大学等では希望する医師に診てもらえないことがある。筆者にはこういう経験がある。長年の家庭医が亡くなり、近くの病院に行くことにした。ところがそこで紹介された主治医は、前にも述べたとおり、「こんな病気ばかりの患者を診るのは嫌だ」と言われたのだ。
主治医制になっているとは知らず、2回目にその病院へ行った時には、故意にその医師の外来日をはずした。しかし、病院側の対応はこうであった。「あなたの先生は○○先生です。他の日に来られては困ります」と言われ、病院の中からわざわざ主治医を呼んで来た。主治医の期限は1回目にも増して悪かった。今考えるとわざわざ私のために病院内から来てくださったので、その先生は本当はとてもいい先生だったのかもしれない。でも、その病院へ行くのはそれで止めてしまった。
台湾では入院以外は自分で好きな主治医が選べる。いわゆる「病院(中国語では<医院>)」ではたいてい医師の外来時間表が置いてあり、患者は自由に持ち帰ることができる。一人ひとりの医師には殆ど番号があり、初診でも電話やインターネットで予約可能だ。予約された番号と予定された診療時間が一致しないことはままあるが、システムとしては非常に合理的にできていると思う。
以前ある知人が言っていたが、現在の日本の医学教育制度では、特に優れたり、特に劣ったりしている医師をつくらないという。皆がある程度一定のレベルに達し、それ以上はあまり変わらないというのだ。だから以前のように「名医」はそうそう出て来ないそうだ(それでも『名医百選』なる書物は存在するが)。
ところが台湾はちょっと事情が違っているように思う。「名医=人気のある医師」ではないだろうが、患者数にものすごい差がある。大きな病院になると人気のある医師は午前中の外来で150人以上の患者を診る。そうでない医師になると10人にも満たないことがある。予約表が外来のドアに張り出されているので、一目瞭然だ。
患者数が多いと当然一人の患者にかけられる診療時間は短くなる。そうなると患者数の少ない医師を選べば、質が高く、長時間の診療をしてもらえるのか。そうでもない。患者の少ない医師はその医師で、やはり患者一人にかける診療時間にさしたる差はない。自分の外来が終わってしまえば、さっさと医局へ戻っていくようだ。だから患者の少ない医師が質の高い医療を提供しているとも言えないのである。そうなると、やはり患者は人数の多い名医(?)のところに集中することになる。
患者数の多い医師というのは、たいていはポイントを捉えるのが得手のようである。中には午後になっても診察室を換え、診療を続けている熱心な医師もある。どうしようもない医師になると、要領は悪い、的は得ていない、患者の話もろくに聞かず、患者への接し方にも問題があると言った感じで、最低だ。
筆者が思う理想的な診療のシステムは、時間がかかっても医師と一対一で話ができる環境であるが、現実には台湾ではなかなか無理なようである。他の医療スタッフの教育が行き届いていると仮定すれば、やはりパソコンに向かってばかりで、ちっとも患者を診ようとしない医師よりは、パソコンの打ち込み等は他の医療スタッフに任せても、患者を診ることに専念する医師のほうがいいに決まっている。でも、自分の出した処方箋はちゃんと自分でチェックすることを怠ってはならない。限られた時間の中でうまく診療をしていくためには医師と他の医療スタッフの連携のうまさ、上手な役割分担が必要だろう。
自分が長年台湾で診てもらっている神経内科の医師は、そこが非常に上手い。患者のほうも待たされるのが嫌で、なかなか早めには来ない。そうすると診療の間で患者が途絶える時間が出てくる。そうなるとすぐに看護婦さんが待合室にいる患者に何番か訊ねる。そしてその場にいる患者さんから先に診て行く。医師と看護婦の連携のうまさを感じる。
また、日本でも多くがカルテ開示に向かっているが、台湾でも大きな病院ではカルテは開示される。何ページコピーすればいくらというふうに申請ができる。患者は見たいときにカルテのコピーを申請すれば、いつでも見られる。ただ、その内容まで懇切丁寧に説明してくれる医師は少ないが。そういう意味でも患者はもっと自分の疾患について知り、学ぶ必要があると思う。それでもプライマリ・ケアの診療所へ行くと、カルテは殆ど見ることができない。患者も自分の状態について多くを知りたいとも思っていないようだ。やはり自分の身体故、自分で知っておく必要があると思う。台湾の病院ではそのような啓発の意味も込めた病院独自の小冊子を作っているところが多く、日本も学ぶべきだと思う。
基本的な診療から高度先進医療に至るまで、台湾では色んな医療が渾然一体となっているという感じだが、どこへ行き、どの医師に診てもらうかは全く患者の意思に委ねられている。