葉山 聡
「本当に医療被害者を救済したいのですか。医療過誤被害者のために戦いたいのですか。あなたは被害者を愛していますか。それならどうして被害者本人の治療には関心をもってくださらないのですか。」私は何度も関係団体に繰り返してきた。
春先にもある団体の総会で、かねてから主張しているこのことについて考えてもらっているかと尋ね、嘲笑され大いに傷ついて帰ってきた。薬でしかならない病気というものがたくさんありそうした病気は定義もされず研究の対象にもなっていない。被害者は自分の病気がその治療のために世界の誰によっても努力されていないという絶望的な状況に置かれる。被害者をこのような状態から救出すべく私は今年1年だけでも国際カテコールアミン学会、脳の機能とその異常、日本神経学会総会、ラディエーション・アンド・ホメオスターシス、バイオロジカルフィジックス、ニューロ2001、国際神経精神薬理学会広島会議と努めて学会に出席してきた。そしてその度になぜするべきことがたくさんある私が自分の人生を犠牲にしてこういうことしなければならないのだろう。団体はなぜ逃げるのだろう。そうしたうらみが積もっていた。
医療被害を受けたことをきっかけに医療問題にさまざまに主張を繰り返される人もいる。しかしそれも被害者個人の障害の治療とは何の関係もない話だ。関係団体の状況は学会と何のつながりもない状況である。そこで主張される情報はイデオロギーの公式にはめられているという気がする。医療界と接続して被害者の治療のための研究を要望するということをなぜしてくれないのだろう。それができなくなるほどの対立軸をなぜ作るのだろう。被害者にとって医師に対するにはうらみは十年で消えてしまうが障害はいつまでも残り人生を苦しめ、そして若いときに薬害で脳を障害された患者は二十年たってようやく中年で回復する。しかし神経細胞内の遺伝子の損傷によりも五十代には脳腫瘍を起こしたり別の病気になってしまう。その予定されたプログラムを回避するだけの医学をせめて作ってあげることが本当の医療被害の救済である。
だがこの世界にそうした計画はない。長年その悲しみを察すると口に出せず一人で家の中で叫んできたことがある。治すべき体もない遺族たちが団体の活動方針を先導し、医療被害者像を自分達の主張が全部だという形でマスコミに流し続ける姿はどうかと思う。学者達はそんな研究は裁判の種になるといってしてくれない。その時彼らの脳裏にあるのはテレビに出るそういう人達である。この状況では原告の受け取る金は今苦しんでいる本人の血ではないのか。大多数の人は裁判も何も出来ないのである。神は死んだ人間やそれを悼む者より今病に苦しむ者をより多く愛されると聖書に書いて有るではないか。
ニューロ2001には二人のノーベル賞学者が来日した。だが二人とも専門が違い話がかみ合わなかった。もう一人プログラムに記載されていない先生はヒューマンフロンティアサイエンスプログラムの関係で来日していた。その人とは最終日に少し話せたがすぐに東京に行かれた。彼はワシントンの国際アカデミーの人権委員会の座長でもある。すでに国連人権委員会、国際赤十字、WHOにこれも団体の非協力的態度によって無視されている私は彼にこの問題を取り上げてほしかったのだが、東京でのスケジュールが過密であえなかった。広島に出発する日その日に彼の講演会があることを知った。それしかチャンスはない。だが広島は広島で大学者が来ている。新幹線京都駅から学会事務局に電話をしてある有名な学者のスケジュールを確認すると、彼は明日朝1番の飛行機でかえるという。頭が変になるほど迷ったあげく結局東京はもうあきらめ西に向いて新幹線にのった。権利法会に代わりに東京をなんとかしてもらえないだろうかと頼んだが、返事がなかった。
広島についてからファクスを招聘先に送り渡たしてくれるようにたのんだ。後で手紙では駄目だ。あくまで会って説明することが大事だと考えたからだ。先生から私の携帯に呼び出しはこなかった。広島で会えた大先生はあらかじめ送った私の論文をたいへんほめてくれた。話す時間がとれ取れず悩んでいた私に会社が声を掛けてくけた。ホテルから飛行場までのタクシーに同乗させてもらえる事になった。そのなかで私はいろいろと先生と話すことができた。
さてまだまだ学会は続く。連日偉い先生の難解な講義で大変だ。薬による脳障害の問題に関しては理事長はそれほど重要な問題とは考えていないとのことだった。私はこの学会でこの問題を取り上げてほしかったが状況は困難であると感じた。最終日の記念講演で私は質問の時間に薬による脳障害の研究をテーマとして取り上げてほしいと申し出た。ところが私の英語のまずさで会場の皆さんに話の意味がわからなかった。唯一その前に話をしていた学者が私に同情的な態度をとってくれた。会場ではどうしても十分に話をする時間がない。人が次々帰ってしまう。前日に私の論文について質問させてらう約束をしていた学者にも話す時間がなかった。私は先生たちがとまっている高級ホテルに一泊をとった。メッセージを伝言しようとようやく英語を書き上げたフロント持って行くとすでにチェックアウトしたとのことだった。
疲れ果てた私は原爆ドームに見送られながら広島を後にした。家に帰ると母が心配とストレスから風邪を引いて寝ていた。