権利法NEWS

Hospital Wandering in Formosa

武  薫

長年の友人である久保井氏より「原稿を書いてみない?」と言われて久しい。『けんりほうnews』を拝見させていただくにつけ、皆さんのまさに「生命にかかわる」重大な投稿を見せられる。その中、私のような者が「生命にかかわりそうもない」題材をもとに、ここに文章を書かせて戴くのはおこがましい気もする。しかし、敢えて言えば「生命にかかわりそうもない」些細な出来事で、医師-患者間の軋轢が生じ、苦しい毎日を送っている患者さんも少なくないと思う。生命にかかわらずとも、患者の権利はあってしかるべきものだ。

筆者は10年前より台湾の新竹というところ(ビーフン、半導体で有名)で、日本語の教鞭をとっている。10年もすれば医療の内容・技術というのも大きく変わってきているが、「医師が患者を診る」という基本の姿勢は変わりない。日本と台湾となると、医療のシステムも大きく異なるが、筆者が台湾で(一部日本でのものになってしまうかもしれないが・・・)経験した事柄をここで述べさせて戴ければ幸いである。

台湾には日本時代の古き良き習慣が残っているため、日本、台湾とも共通していると思うが、質問ばかりしてくる患者、医師の意見に疑問を投げかける患者というのは、多くは「困った患者」、「難しい患者」というレッテルを貼られ、医療スタッフからは敬遠されがちだ。しかし、果たしてそうだろうか。「どうして?」という素朴な質問に答えられない医療があって良いのだろうか。

このシリーズ(と勝手に筆者がシリーズに仕立てているが)は、困った患者とされてしまった筆者の体験談である。素朴な疑問を持ちつつ、セカンド・オピニオンでももとめていると、「Doctor Shoppingしている」とか、「Hospital Wanderingしている」と言われてしまうが、敢えて私はHospital Wandering肯定派として意見を述べたい。Formosa(フォルモサ)という言葉は台湾の古称である。「うるわしの島」という意味である。今では「ゴミの島」と化してしまった台湾ではあるが、そこを愛し、台湾の方々と共に現地の医療を受けてきた経験をここで述べたい。

腰の重い筆者であるが故、シリーズと銘打っておきながら、一回きりで息切れしてしまうかもしれないが、気軽に読める素朴な内容を目指していきたい。10年と一口に言っても、やはり様々なことが起きた。これから書かせていただく事柄は必ずしも年代通りにはいかないと思うが、ご了承戴ければ幸いである。最後に、いつも私を励ましてくれた久保井氏に感謝の意を表すとともに、序に代えさせて戴く。

Hospital Wandering in Formosa

第1回  初めての外来受診

どんなに具合が悪くなっても病院へは絶対行かないという方はいないと思う。我々は日常生活の上で病気だと思うとやはり医療機関に頼ることになる。台湾人は本当に病院が好きだ。初めて台湾の病院を受診した時の想い出は10年経った今でも鮮明に私の脳裏に焼きついている。

私が台湾へ渡ったのは1991年10月のことだ。それ以前にも何度か旅行で訪れたことがあったが、やはり滞在と居住とでは異なる。居住以前のことではあるが、1985年夏に中国語(いわゆる中国で言われる共通語〈普通話〉に近い北京語。台湾では〈国語〉と呼ばれる)の訓練と、当時やっていた家庭教師とを兼ねて40日ほど台北に滞在した。もともと慢性の疾患があったことから、そのへんの薬は抜かりなく準備していた。しかし、滞在も後半となると、午前中のランゲージスクール、それを終えての市場での買い物、昼食の準備、家庭教師と忙しい日々が続き、疲れが溜まってか熱を出し、下痢も酷く寝込んでしまった。

当時台湾は国民皆保険ではないことも知らなかった私は病院へ行くのをひどく恐れた。家庭教師をやっていた恩師のお嬢さんのご家族は、「眞武を病院へ連れて行こう」と、目と鼻の先にある台北市立和平医院(台湾では規模の大きいいわゆる「病院」を〈医院〉〈という)へ行こうとされた。しかし、私はかたくなに拒んだ。一体いくらかかるか分からない医療費への不安や、診てもらったこともない国(ここでは敢えて「国」と表す)での医療に対する不安、今よりずっと下手だった中国語への不安等が頭の中を過った。今考えれば「案ずるより生むが易し」だったのだろうが、当時の私はとにかく受診を拒み、自力で治した。

それから六年、まさか台湾に住むことになろうとは思わなかったが、ここ台湾へとやってきた。持病のコントロールも1985年当時より大変になり、常用する薬も増えていた。しかし、何やら怪しい台湾の医療機関は信用できず、薬はいつも日本にいる家族から送ってもらっていた。しかし、住むことも三ヶ月、一二月となり、ある日私は授業中に倒れそうになった。「このままでは絶対危ない」という気持ちが強くなり、私は授業を中断し、当時の勤務先の敷地内にある宿舎で休んだ。

当時勤めていた〈中華民国対外貿易発展協会貿易人才培訓中心(国際的なビジネスマンの養成センター)〉は月~金は8時から12時まで授業で、午後は個別指導となっていた。日本語グループは日本生まれの台湾人、鄭先生の他は日本人ばかりである。午後一番、台湾で育たれた鄭先生や車を出してくれた同僚たちに付き添われて〈台湾省立新竹医院(現在は省が廃止されたため、〈行政院衛生署新竹医院〉と改称)〉へと向かった。初めての受診である。まず驚かされたのは人の多さ。日本の病院とは違い午後でも患者さんでいっぱいだ。後になって、台湾に住んでいた知人は受付の様子を「馬券売り場」と表現していた。また、台湾では日本時代の名残として夜間にも外来のある診療所や病院が殆どである。

鄭先生はご自身の友人である看護部長に頼んでくださり、「早目に診てもらえ、良い先生」という方を紹介していただいた。2時間は待ったろうか。診察室の扉の上にある番号灯に私の番号が現れた。診察室へ入っていくと驚いたことに中は人でごった返していた。自分の想像していた診察室とは全然違う。日本は患者と医師だけの筈なのに・・・。当然持病があれば疾患のことや服薬中の薬のことも話さねばならない。そう考えながらも、鄭先生も親切で同席してくださったのか一緒にいらっしゃるので、話そうに話せない。持病のことは同僚には隠していた。

前の一行が診察を終え、私の番となると、今度はあとの患者さんが診察室へ呼び入れられる。こんな状態では話なんかできない。結局は「めまいで倒れそうになった」とだけ伝え、薬をもらって宿舎へ帰った。体調はすぐれないがトコロテン方式の診療にただただ唖然とするばかりだ。その後も多くの医療機関へ行ったが、診療方式は大同小異である。また、受診時には患者ではなく、同伴する家族や友人たちが患者に替わって医師に説明するのが普通のようであるし、医師もまたそれを望んでいるようだ。

このような医療に戸惑いながらも、「二回目は絶対一人で行こう」と心に誓った。それでも医師との会話は全て次や次の次の患者さんに筒抜けだ。患者の付添い人と他の患者さんの中でごった煮のようになされていく医療。そしてそれを少しも不思議とは思わない患者。これが台湾の医療現場である。そしてこれは今日でも変わることはないのだ。

(つづく)