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医療過誤原告の会『鹿児島シンポ』報告

~「医療被害の多発」と「カルテ開示法制化先送り」の間で思うこと

 

原告の会  勝 村 久 司

 

鹿児島空港への着陸が迫ったとき、眼下に見える桜島からは大きな噴煙が上がっていた。到着すると街中の歩道にもうっすらと火山灰が積もっている。二日ほど前から数年ぶりに活発な噴火をしているようだった。

結成八年目になる『医療過誤原告の会』が、六月一三日(日)に初めて鹿児島でシンポジウムを行うということで司会を頼まれた。昨夏の札幌での同会のシンポジウムにもパネラーとして参加した。医療過誤は全国で起こっている。
昨年の北海道も今年の九州も、とんぼ返りではあったが、原告の会の方々とは本当に共感しあえる忘れられない出会いがたくさんあった。特に、共通して心打たれたのは、前日から皆、自分や愛する家族が医療被害にあった悲しみを越え、熱心に真剣にシンポの準備に取りかかっておられた姿だ。私の目には、原告の会が結成された頃、大阪や東京で医療過誤の原告たちが初めて出会い、共感しあい、シンポの準備に取り組んでいた当時とだぶって見えた。

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シンポジウム『開かれた医療を求めて』は地元の新聞やテレビがほとんど全て取り上げてくれ、予想以上の約八〇名の参加があった。
シンポはまず、第一部で被害者からの医療被害報告があった。いつもながら、怒りと悲しみで涙がこみ上げそうになるが、こればかりは簡単には報告できない。頭でっかちな議論に陥っている医者や弁護士、マスコミ関係の方々には、このような原告本人の叫びこそをぜひ直接聞いて欲しいといつも思う。

第二部は大分の徳田靖之弁護士による『患者の人権いまだ見えず~医療裁判で見えた診療現場~』という講演で、最近扱った麻酔事故の裁判と抗ガン剤使用に関する二つの裁判の事例をもとに話された。
印象的な話としては、これまでに関わったケースで証拠保全とは別にカルテを開示したのは、六〇件中たった二件しかなかった、という話だ。そもそも、多くのカルテがきちんと経過が書かれていない上、改ざんも非常に多い、と明言された。「カルテの貧困さはつまり医療の貧困さだ。」と話された。また、徳田氏は、「らい予防法」の問題にも積極的に取り組まれているが、そこでの経験も含め、「原告本人といろいろと話をしていると本当に学ぶことが多い」と言って締めくくられた。今の医療界(特に日本医師会)がパターナリズムを維持して空虚な権威を保とうとしているのとは大きな違いである。弱者の声に真摯に耳を傾ける姿勢が信頼を生む。

第三部は、『現代の医療が抱える問題点~カルテ開示を阻む要因は何か~』と題したパネルディスカッションが行われた。
宮崎の日向内科医院長の井ノ口裕氏は、カルテ開示実践の先駆けの人だ。氏は、よい医療を実践して行くほど病院経営が苦しくなる実状から「医療改革は診療報酬の問題など医療経済的な観点が必要」と話された。この点は、全く同感だ。さらに、カルテ開示の問題も「診療報酬を付ければすぐに普及するのではないか」と話された。
鹿児島大学医学部保健学科助教授の中野栄子氏は、看護婦らを養成する立場から、開かれた医療への取り組み方について話をされた。「看護記録には、独断や偏見に陥りやすい自分の感想を書くのではなく、客観的に言葉のやりとりの事実を記載するようになってきている。」ということだが、とても良いことだと思った。私の妻は子供をお産の被害で二人亡くしているが、二人目の子供の重度脳性麻痺が確定したとき、妻は子どもの前でただじっと立っていた。それを見た看護婦が、「母性本能が足りない」と書いて引き継がれ、偏見を持たれて苦労した。もし、事実を客観的に「ただじっと立っていた」と看護記録に書けば、その理由はなぜか、と引き継がれ、実は過去にも子供を脳性麻痺からなくしていた事実や、そういう母親に対するケアの問題まで検討されたかも知れなかったはずだ。本人と会話もせず、十分な情報収集もせず、その人の心を分析できると過信して記載している誤った記録は、当然開示には耐えるものではない。
さらに、中野氏は、回診の際に家族を病室から追い出す習慣もあらためていきたい、と話された。折しも、シンポ終了後の懇親会(飛行機の時間の都合ですぐに中座したが)で以下のような話を聞いた。五歳の男の子が救急で運ばれ、注射を打ってる途中でとても嫌がった。医者は、その段階で家族を病室の外に出した。中から聞こえてくる医者の声は「注射を嫌がって、きみ、死にたいのか」だった。家族を追い出した中で、「五歳の子になんという脅しをするのか」と不審に思ったときには、むりやりの注射は打たれ、その後ぐったりして死に至ったというのだ。家族を追い出す理由は何もないはずだ。
パネラーの最後は、ちょうどシンポ当日の地元紙の「人」欄に登場した、福岡の医者でもあり医療過誤原告でもある久能恒子氏だ。久能氏は、五月二四日に、久留米大学の医学部で特別講義の教壇に立った。医者自身が医療被害者の思いを医者の卵たちに訴えかける。そこには、医療過誤で亡くした娘の仲の良かった同級生の友達たちもいたという。新聞報道等によると講演が終わったら涙を流して訴えを理解してくれた学生から多くの拍手が起こったという。このように事故から学ぶ心を持つこと、これが医学教育の中でこれまで欠けていたことかも知れない。この日も、久能氏は医療被害の実態と心なき医療の現実を訴えた。

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会場は桜島へ渡るフェリー発着場のすぐそばだった。会場の窓の向こうで、まるでシンポを聞いて怒っているかのように、桜島は大きな噴煙を上げてそびえ立っている。私は翌日も授業があったので急いで京都へ戻ったが、「ちょうど今、高校の地学の授業で火山のところを教えているんです」と少し話していたので、翌日、久能さんが桜島に渡って集めた火山灰をたくさん宅配便で送ってくれた。まだ温もりの残るような火山灰を生徒たちに触れさせることができた。
ちょうどその日、このシンポ報告の原稿依頼があった。その後、投稿が遅れた原因の一つは、カルテ開示法制化先送りの件で奔走していたことがある。結局、多くの被害者達の長年の努力によってようやく実現に向かっていた法制化が、今回、日本医師会の強い反対によってつぶされてしまった。私も含め、漫然と被害を繰り返させないことを願ってきた医療被害者の怒りは、おそらく桜島の比ではないだろう。

(終わり)