権利法NEWS

法曹の責任にこたえて

東京都  弁護士  鈴 木 敦 士

 

月一三日午後一時三〇分 らい予防法人権侵害謝罪国家賠償請求訴訟の第一回口頭弁論が東京地方裁判所一〇四号法廷で開かれた。東京都東村山市にある全生園にいる原告のみならず、群馬県草津町にある栗生楽泉園にいる原告も朝早く療養所を出発して駆けつけた。雨が降って足下の悪い中、原告以外の療養所入所者、支援する会などの傍聴者が詰めかけ、一〇四号法廷は東京地裁で一番大きい部類の法廷であるが一〇〇席近くある傍聴席は満員であった。原告代理人席も満員で、普段廷吏の使っている机の奥までいすを並べても足りず、証人用の長椅子を原告席に寄せて原告代理人が座った。  

ず、形式上、原告の訴状陳述、被告の答弁書陳述があった。口頭弁論と言うくらいであるから本来、裁判では口頭で意見を述べなければならないとされている。しかし、裁判傍聴をされたことのある人はご存知のとおり、普通、裁判では意見は書面に書いて提出し、法廷で読むことはない。裁判長が訴状陳述答弁書陳述と言うので原告被告がうなずいてそれで終わりなのである。
もちろん、今日はそれだけではない、原告四名の意見陳述があり、休廷後、弁護団長の豊田誠弁護士による本件訴訟の意義、訴状の要旨について中西一裕、安原幸彦両弁護士から陳述、その後、被告の意見陳述(被告指定代理人大野重國)、それに対し、原告側の反論の意見陳述(鈴木利廣弁護士)をなした。

告番号一番は母、本人、兄の発病、強制収容によって受けた家族の苦しみを語り、五三年のらい予防法の制定反対、その後の国の施策に対し戦ってきたことを述べた。やっと、らい予防法が廃止されても、国は廃止の遅れを謝罪したのみで、私たちが被った犠牲に謝罪も賠償もないこと、私たちの人間の尊厳が全く見捨てられていることに愕然とした。このままでは、死んでも死に切れない思いで裁判をおこした、と提訴に至った心情を述べられました。しかし、差別偏見が根強く残っており、訴訟をすることで、ひっそり暮らしている故郷の家族が再び世間の白い目にさらされるのではないかと恐れたこと、現在の心境として、国が答弁書で、ハンセン病に対する差別偏見は古来からあったもので、国の政策とは無関係であると主張しており怒りを新たにしていること、なども述べられました。

告番号二番は、一九三七年から四〇年まで、療養所に入る前のことについて、病気について近所の医院ではわからず、秋田市内の病院を五カ所くらいたらい回しにされ、日本赤十字病院でもはっきりとした病名は言わず、東京帝大の病院を紹介された。どこも、ハンセン病と診断すると、届け出をする必要があり、届け出ると呼び出されたり、病院全部を消毒しないといけないからそのようなことに関わらないように、実際は病名を知りながらわからないといってたらい回しにしていたことを後から聞かされたと述べた。
また、療養所の強制労働は、重病者の看護作業、冬の雪かき、急峻な谷底から薪運搬、職員のための防空壕掘り、木炭運搬、など様々ありこれらの労働で病状を悪化させた仲間が多かったこと
特別病室に収容されていた者を入浴のため数ヶ月ぶりに担架で担ぎ出したとき、ざんばら髪の間からのぞく目だけがぎょろぎょろして人間とは思えない形相が忘れられないことなどを述べられた。

告番号六番は、全盲であり、耳も不自由なため打ち合わせには困難が伴った。しかも法廷で文章を読み上げることができない。そこで、弁護団の担当弁護士がチェックした原稿を、原告はテープに録音して何度も何度も練習して暗記して陳述した。
一昨年姉から一目でいいから楽泉園を見たい、弟につれていってもらうと言っていたが弟も姉も家族に自分のことを言っていない、だから来ることはできなかった。姉は私のことを夫にいえず夫をだましていることを責め、病気になっている私を思って苦しんで、八一歳で最近なくなったこと
療養所に隔離しておきながら、医療らしい医療も施さず、昭和一八年にアメリカでプロミンが開発されたのに、昭和二四年になってもプロミン治療が受けられず失明したことなどを述べた。

告番号一七番は、弱視である。裁判所に提出した意見陳述書を読むことはできないから、自分で大きくノートに書き写しそれを読み陳述した。
療養所でしか治療を受けられないのでやむえず入所したこと、一九五五年、岡山の療養所に高校があったのでそこへ行く途中「伝染病者輸送中」の張り紙をした貨物列車に乗せられたこと、大学に通うが、療養所では大学進学を反対され許可をもらわず退所したため、ハンセン病であることを隠すのに神経をすり減らしたこと、せっかく企業に勤め、係長昇任試験に受かったのに、社会で生活することに反対され治療薬をもらえず病状が悪化し、やむえず療養所に再入所したこと。療養所では十分な治療が受けられず薬の副作用で右目が失明し左目も弱視になってしまったこと、一九八〇年代になっても、入所者が別の病院へ友人を見舞いに行こうとすると、らい予防法をたてに病院の医師から面会をことわられて、ハンセン病患者が来ると病院の入院患者が大騒ぎになり病院がつぶれるなどといわれたことなど、差別事例は枚挙にいとまがないことなどを述べられた。

廷後、豊田団長は、らい予防法という法律により未曾有な人権侵害がなされそれを傍観してきたことに法曹として責任があること、原告らにしたことは取り返しがつかないが、人間回復の光を当てるため、速やかに、国は謝罪と被害の損害賠償をすべきであることを述べた。
訴状について要旨を中西、安原両弁護士が前半、後半に分けて陳述した。原告らが戦前からの被害を問題にするのは戦前の強制隔離が、社会的差別偏見を生み、また、原告らの心を傷つけでおり、被害は継続して続いているからであること。国の主張する軽快退所であるとか、外出制限は事実上なかったことなど実態を無視した議論であること。断種、入所時の強制など個別のエピソードを個々分断してとらえるのでなく、社会と隔離され家族と切断されたことを被害ととらえ、真相の解明、責任の明確化、謝罪、賠償を求めていくのがこの訴訟の目的であることを示した。

の後、驚くべきことに被告が意見陳述をした。この種の訴訟で被告が意見を陳述することは珍しい。その内容は、除斥期間の主張をして審理の対象を限ろうとし、除斥にならない昭和五四年以降は開放政策をとり何の問題もなかったと主張している。 その上、全患協(療養所入所者の自治会の全国組織)が処遇改善の法的根拠がなくなるとして法廃止に消極的であったから法廃止が遅れたかのような責任転嫁の主張を始め、全患協が法廃止の時に個別の損害賠償はしないといったはずであるなどと主張した。
これは、過去特に戦前の療養所の実態にはふれられたくないので、除斥の主張をし、また、原告が増えて国が追い込まれつつあるので療養所内の訴訟反対派の主張をそのまま引用して療養所入所者の分断を図ろうとしていると感じられる。なによりも、原告一七番が国が隔離政策を採っているがための最近の被害実態を意見陳述したばかりであるのに、平然と問題はなかったように言うことが非常に厚かましい。
被告の主張が実態を無視していること、いたずらに個別問題に入り込んで全体として、原告らが被告の政策により、社会から隔絶させられ苦しんできたことの責任を回避しようとしていることを批判し、次回詳しく書面で反論することを述べ終わった。

の後、弁護士会館一〇階の会議室で報告集会を弁護団、支援する会の共催で行った。
赤沼康弘弁護団事務局長がまず本日の報告をした。原告団代表の谺雄二さん、西日本弁護団の徳田靖之団長、多磨全生園の平沢保治自治会長、駿河療養所西村自治会長、全療協神事務局長、豊田誠弁護団団長、支援する会の田中等代表がそれぞれ挨拶した。国の意見陳述の内容も含め国の応訴態度についての怒りが爆発した一方、療養所内ではこの裁判についていろいろな意見があり、全療協としては今ひとつ踏み込めないことなどが話された。
その後、懇親会にうつり、支援する会のメンバーや、二次提訴した社会復帰者の原告、裁判で意見陳述した原告らの話を交え、楽しく交流した。

なお、東京弁護団はこの訴訟に関するパンフ「故郷へ」を三〇〇円で頒布しております。また、東京訴訟の訴状は、皓星社よりブックレットとして八〇〇円で販売されています。この訴訟の詳細についてはこれらをご覧下さい。

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