らい予防法違憲国家賠償訴訟西日本原告団 洲山 八重子
【編集部より】
先月につづき、今回もらい予防法違憲国家賠償訴訟原告の方が裁判所で訴えた意見をご紹介します。今回の語り部八重子さんは、いつもきらきらした瞳で、裁判に寄せる自分の気持ち、療養所で経験したさまざまの出来事について話してくれます。ご主人は、そんな八重子さんを優しい物腰で静かにほほえみながら見つめています。はじめてお会いしたとき、療養所に入るまでのいきさつを、既に書かれた物語のように、やわらかい声でよどみなく語った彼女の姿を、私は忘れることができません。この穏やかな一組の夫婦が乗り越えてきた半世紀以上のときの重みを、国も私たちもしかと受け止め、償わなければならないのではないでしょうか。
発 病 ま で
私は昭和二年に離島で生まれました。当時私の家は商売をしていまして、食べ物に困ることもなく、小学校六年生の時には健康優良児に選ばれ表彰を受けるほどでした。
昭和一四年四月、私は高等女学校に入学しました。離島から入学する生徒は少数でしたので、夏休みに島に帰省した時、制服も誇らしい気持ちでした。
ところが、昭和一五年一二月、突然、女学校の先生から皮膚科の専門医の診察を受けるようにと勧められました。何故なのか分からない私は両親に相談したところ、両親は皮膚科の専門医というのは沖縄本島のらい療養所愛楽園のことだと思ったそうです。両親は親戚にも相談しましたが、親戚から「絶対にそこでは診察を受けないで、県外の専門医の診察を受けるように」との強い要請がありました。それで、結局星塚敬愛園で診察を受けることになったのでした。
敬 愛 園 へ
それから慌ただしく私は父に連れられて船で鹿児島港に行きました。私はその時まで大学病院での診察だろうと思っていました。
しかし、そうではありませんでした。鹿児島港から垂水港に向かい、垂水港に着くと、父は早速港のそばのタクシーに「敬愛園まで乗せてください。」とお願いしました。ところが、運転手は私たち親子を見ながら、「ある時、敬愛園に診察を受けに行く人を乗せて行って、大変な目に遭いましたよ。車の中まで全部消毒されましてね。あそこだけは、勘弁してくださいよ。」と言われたのです。
そのため、私と父は敬愛園まで三〇キロメートル以上もある遠い道のりを、歩かなければなりませんでした。途中一夜を明かし、夜明けの寒さの中を歩いてやっと敬愛園にたどり着きました。
着いたときには、まさかその日からここを出ることがないなどとは、そしてまさか今の今までここにいようとは、夢にも思わないことでした。この日は私が一生忘れられない日になったのです。
療養所について
敬愛園にやっとたどり着いた私は、水が飲みたくて敬愛園の職員に水をくださいと頼みました。職員はすぐにコップ一杯の水を持って来ました。飲まず食わずで歩き続けてきた私は、そのコップに飛びつくように手を出しました。
すると、その職員は私の差し出した手を制して、「この水はお父さんが飲んでください。もし病気でしたらコップが大変です。娘さんは後で患者地帯に行けば、水道がありますので、そこで飲んでください。」と事も無げに言って、その場を離れて行きました。
父は職員が出て行ったのを確認すると、私に向かって「コップを使わんで飲む方法があるよ。両手をコップの代わりにすればいい。」と言って私に両手を出させ、その手の中にコップの水を注いでくれました。私がその水を飲んでいる時、父は「ここは地獄やな」と溜息まじりに言いました。その時の父の顔は今でも脳裏を離れません。
その日、私と父は面会者の宿泊所のようなところに泊まりました。朝が来たら一緒に帰るつもりでした。しかし、私が起きた時には父はもう敬愛園を後にしていました。父が帰ったことを知った私は親に捨てられたと思い、声が枯れるほど泣きわめきました。本当に本当に父を恨みました。
しかし父は「起きてまた娘と会うと別れが辛い。」と言って、私を同郷の大人の方に頼んで帰ったとのことでした。父が心を鬼にして帰った気持ちは何十年も経過してからやっと理解できたのでした。
私も辛かったのですが、家族も大変だったそうです。私が入園したらしいと言う噂が流れると、商売がばったりうまく行かなくなったそうです。私が敬愛園に入所したときから家族の受難も始まったのでした。
療養所での生活-結婚
園での生活が始まると、私は新しい名前をつけられました。園では自分の本名すら名乗れなかったのです。
園では色々な作業が課せられました。看護助手もしたことがありました。看護婦と一緒に仕事をしました。でもとうとう看護婦の顔は分かりませんでした。大きなマスクを顔一杯に掛けていたからです。この病気は恐ろしい病気であると、職員が世の人に見せつけている、そんな仕事ぶりでした。
昭和二一年三月、私は結婚しました。夫はどこにも障害がなく、「この人となら社会に出られる」と思いました。入所して既に六年の月日が流れ、社会に出たい思いは日毎に強くなっている時期でした。
結婚すると夫婦部屋に移ることになりました。夫婦部屋と言っても、一二畳の部屋を四組の夫婦で共有するというものでした。仕切も衝立もない部屋の四隅がそれぞれの夫婦の居場所でした。そのため布団を敷いて寝るときは、隣の夫婦の布団との間に隙間はほとんどありませんでした。それでも夫と一緒にいるだけで嬉しく思いました。
ワゼクトミー
しかし、不幸は、楽しかるべき新婚のその日に訪れたのでした。朝を迎え、初めて夫の下着を洗濯しました。ところが、夫の下着に血やヨードチンキが赤黒く着いているのです。驚いて夫に尋ねると、無口な夫が小さな声で「これはなあ、昨日結婚の手続きをしに行ったら呼び出されて、『ここではワゼクトミーをせんと、夫婦舎には入れないよ』と職員に言われて、手術台に上がったんだ」と打ち明けてくれました。
夫は、もし私が妊娠したら強制堕胎をさせられる、そんな辛い思いを私に味あわせたくない、と考えてワゼクトミーの手術を受けたとも言っていました。私はこの人となら社会に戻り、普通の生活をし、子どもも産み育てられると信じていたために、この手術の話を聞いてもう一生子どもを持つことは出来ないと思い、心からがっくりしてしまいました。
結婚後の昭和二二年のお正月、夫の実家に結婚の許可をもらいに帰りました。いわゆる無断外出だったのです。園の巡視に見つからないようにと、朝の暗い道を駅まで無言で歩いたことは今でも忘れることは出来ません。
昭和二五年になると、四畳半に夫婦二人で住むことの出来る部屋が出来始めました。隣の音が筒抜けのような粗末な部屋でしたが、全部の夫婦がすぐに住むことが出来るわけではなく、二人で個室に入居できた時には、まるで宝くじにでも当たったような気持ちでした。
果たせなかった社会復帰
結婚後も夫と私は社会に戻る希望を持っていました。夫は無断外出をしては職を探しました。
夫が面接に行く日は、祈るような気持ちで夫を送り出していました。しかし、夫が「今日もだめだった」とうなだれて帰ってくる日が何日も続くと、私も辛い思いをしました。面接で経歴を聞かれたりすることで、採用してもらえなかったのでしょう。
職が見つかればたとえ無断外出でも社会の中で働けると言う希望すら叶えられませんでした。結局はらい予防法が全ての希望を打ち砕いていったのです。
飼い慣らされた人間
平成八年四月、らい予防法は廃止されました。しかし、だからといってあんなにあこがれ求めてやまなかった社会に帰ることは出来ません。
もはや浦島太郎です。ある日、外出してエスカレーターに乗ろうとしたことがありました。怖くて怖くて、とても乗ることができませんでした。
夫が自嘲的に「飼い慣らされた人間」と自分のことを言ったことがありました。私達は、やっぱり療養所でしか生きられない、飼い慣らされた人間なのです。
私は本当に社会に戻りたかった。夫と一緒に家庭を築き子どもを育てるという、普通の生活を築きたかった。たったそれだけの思いが、何故叶えられなかったのでしょうか。
私は、父の葬式にも母の葬式にも参列できませんでした。未だに父母の墓参りも出来ていません。
私の実家の家族が私達の金婚のお祝いをしてくれましたが、場所は実家のある島ではなく、沖縄本島でした。
家族に迷惑を掛けたくないと言う思いから、らい予防法が廃止された今でも生まれた島に簡単には帰ることなど出来ません。本当に差別偏見のない世の中に早くなって欲しいと思います。
どうぞこの気持ちを理解していただきますよう、お願いいたします。