らい予防法違憲国賠訴訟原告 重 野 千 代
【編集部より】
「らい予防法」廃止の経緯や国家賠償訴訟提起については、これまでも数回にわたって掲載してきました。今回ご紹介するのは、熊本の国家賠償訴訟においてひとりの原告がおこなった意見陳述です。ハンセン病も、その療養所も、私たちの日常からはるかに遠く、それだけに私たちはこの、これまで私たちの目から遮られてきた地にどのような歴史があり、どのように理不尽なことが行われたのか、知らないで来ました。
今に至るまで六〇年を療養所で過ごしてきた重野さんがはじめて療養所の外で、一般の人達に向けて語った言葉は重く、聴く者の胸を打ちました。なお、重野千代は仮名です。出身地も療養所の名前も伏した形でご紹介しなければならない、そこにもこの問題の根深さがあります。
けんりほうnewsでは、これからも折に触れ、療養所の方々の声をお届けしたいと思います。
発 病
私の家は漁師の網元をしていて、私は、何の苦労も知らずに育ちました。
発病したのは、十三歳の時、高等女学校へ通い始めた一年生の夏でした。体はどうもないのに顔が赤くなり、胸に白い斑紋が出ました。町の伯父の家から通学していたので、祖父母が真っ先に心配し、「今のうちに学校をやめさせなければ、みんなに病気のことがわかってしまうよ」と言われ、泣く泣く学校を辞めました。
発病して七年間は、ずっと自宅療養をしていました。親戚に医者がいて、特別な丸薬を作ってくれ、これを毎日三回飲むように、そして体をいたわり無理しないようにと言われ、両親も親戚も、病気の私を大事にしてくれました。私はそのお陰で、目立った症状もなく、日々を縫い物や子守りなどをしながら過ごしていました。
しかし、昭和十二年頃から、患者の取締りが厳しくなってきました。町の伯父の家ばかりにいることもできなくなり、私は実家のほかに、祖父母の家、兄夫婦の家と、逃げ回り、短期間に転々とする生活をしていました。
この頃らい療養所ができて、物乞いをしていた病者の姿が見られなくなり、収容されたニュースが新聞に毎日載るようになりました。それからは、自宅療養している者まで検診に回り、小学校から中等学校・女学校・師範学校まで検診があり、病者発見のニュースが載りました。病者発見に、県の係と警察は、離島までもやってきました。それこそシラミつぶしのような検診に、この次は私ではないかと恐怖の毎日で夜も眠れず、死ぬことばかりを考えました。
療養所行きを迫られて
そして昭和十四年に入って、私が実家の家にいた時でした。とうとう県の衛生課から調査がやってきました。私は部屋の中で縫いものをしていました。そこへ、子守りの子が走ってきて、「姉さん、白い着物をきた人がやってくるよ。巡査もいたよ。今日の船でたくさん来たよ。」と言います。私が逃げる間もなく、白衣を着た、医者と看護婦が「こんにちは、どこか悪いんか」と縁側から入ってきました。私は黙っているしかありません。そして私の手をさわりながら、「感じがありますか」と聞いて、「病気の初期だから、一年したら帰れる。療養所に来なさい。」といわれました。私が、「うちで薬を飲んでいますから。」というと、「どんな薬か」と聞かれ、「丸薬です」と答えましたが、心の中で、『薬のことを詳しくいうと、薬を作ってくれている医者の叔父さんに迷惑がかかるんじゃないか、しまった』と思いました。私が、「家で養生してるから、行きません」と言うと、「そうか。だけど寂しくないね。あっちへ行ったら友だちがいて、勉強もできるよ。図書館もあるよ」と療養所のパンフレットを出して私に見せました。そこにはみんなでミシン掛けをしてる写真や、芝居や花見、なわとびをしている子どもの写真がのっていました。それでも私が黙っていると、「ここがいやなら、○○園はどうね。親戚が園長をしているから紹介状を書いてもいいよ。すぐに病気はなおる。一年で帰ってこれるから」となお、しつこく言いますので、私は早く帰ってもらいたくて、「はい考えてみます」と言いました。
とうとう県に、病気であることがわかってしまいました。検診でわかった以上、次にくるのは収容です。そうなって、私の病気のことが知れわたったら、網元をしている親にも、私をかくまって養生させてくれた親戚にも迷惑をかける。私はここにいるべきじゃないと思いました。
療養所へ
多分、私がそのまま家にいて、県の収容の人が来ても、両親はじめ親戚の人たちも、きっと、『かくまおう、かばおう』としてくれたでしょう。でもそれだけに、これ以上迷惑をかけることはできないと、今まで味わったことのない苦しみの毎日でした。一年で病気がなおって帰ってくることができるという医者の言葉に、娘心の甘い期待もありました。もし、地元の療養所に入れられたら今まで隠していた事がばれてしまう恐れが先に立って、他県へ渡ることに決めて、小さなトランク一つと母親が薬を買うようにと渡してくれた茶封筒に入れたお金を持って、『家出』をしたのです。そのお金は町の伯父の家に行くための薬代でした。親に相談すれば反対されることはわかっていました。その時が、まさか、母と最後の別れになるとは思ってもみませんでした。
昭和14年5月8日、現在の療養所に入りました。私が二一歳のときでした。
入ったその日、着ていた着物も下駄も園のものに着替えさせられ、荷物もお金も持っていかれてしまいました。翌日、消毒された荷物は戻ってきましたが、お金はありません。園が預っているというので、事務所に取りに行くと、「これがあんたのお金」と、職員が、私がもってきた小銭入れの巾着袋を振って、ガラガラと音をさせ、中をあけて見せました。中には、四角や丸の赤茶けたブリキのお金が入っていました。「ここではあなたが持ってきたお金は使えません」と言われ、何もわからない私は、二円五十銭のブリキのお金を持ってしばらく呆然と立っていました。
療養所での生活
一年で帰れるという医者の言葉は、まったくのウソでした。治療とは名ばかりの一週間に三回の注射だけで、無理な仕事までさせられました。療養とは名ばかりの療養所の生活がわかってきてからは、逃げ帰りたい気持ちにもなりました。でも、お金もとりあげられる、何かいうとナマイキだと怒鳴られました。逃げても、故郷までの船に乗らない前に途中で見つかれば、逃走した者として懲罰を受けるという大変な事が待っているのが恐ろしくて、若い私にはとても逃げることもできませんでした。
そして、最初の冬がやってきました。私は、看護婦の手伝い作業をさせられ、女子青年団活動、奉仕活動にと無理を強いられました。それまで自宅療養だけですごしてきた私ですが、ここでは働かなければなりません。十二畳半に一個の火鉢を八人で囲み、寒さで私の手や足は、しもやけから化膿してしまいました。私の手足は、今ではその時の後遺症で変形しています。父が昭和35年に面会に来ました。父は、変形した私の手足を見て泣きました。あのまま、家にいることが許されたならば、あるいは早く家に帰ることが許されたならば、私の手はこのように不自由になっていなかったと思います。変わり果てた私の手足をさすりながらの父の無念の涙はつらく、共に泣きました。
家に帰れなくなった私は、22歳の時に結婚し、そして妊娠しました。しかし、突然に医局から呼び出され、私は堕胎、夫は断種手術を受けました。その時、「国のやっかいになっていて、恥ずかしくないのか」と言われました。子どもを奪われた上に、そして、園にいたくているわけではないのに、何でこんなことまで言われなければならないのでしょうか。若かった22歳の私はくやしくて、同じ人間なのに、いかにも汚い者のような扱いをされた事は生涯心に焼きつき離れません。
家族への想い--裁判に託して--
私は、家族のやさしさの中で自宅療養していました。しかし、病気が『公』に知れてしまったあの時の、若い私には、療養所に来るしか道がありませんでした。せめて、国が自宅で療養することを認めてくれていれば、私は家族のいたわりの下で、家族とともにに暮らすことができたと思います。
私がこの療養所にいることを知った両親は、心配して、故郷に帰れるものならばと、お金や荷物を送ってくれました。でも、送られてきた荷物もお金も職員に中をさぐられて、お金は取り上げられ、心ばかりの食べ物もバラバラにされ食べられないようにまでかき回された事が何回もありました。せっかくの両親の愛情を込めた気持ちまで踏みにじられ、くやしくてたまらず泣いている私を、部屋の友だちに泣いたら負けよと慰められたことも忘れられません。
母は、亡くなる最後まで、私のことを心配していたそうです。私は、自分だけでなく、家族の人権まで踏みにじられたことが許せないのです。私のために色々と心配してくれた肉親は亡くなりました。せめて、らい予防法が早く廃止になっていたらと悔やまれます。六〇年の園内生活を過ごしている私は八〇歳になりました。この裁判で、晴れて人権が一日でも早く回復できますように、裁判官の先生方に、切にお願いいたします。