権利法NEWS

ちょっと待って、その議論!...カルテ開示法制化に寄せて...

小 沢 木 理

生省案は、ほぼ分かりました。
日本医師会のガイドラインも、各方面へのプレッシャーとしての影響が考えられると言うことも分かりました。
そこで、この厚生省案には本題の主権者としての患者の声が確かめられていませんが、どこにどう反映されているのでしょう。  

私達が何かを考える時、いつも用意された土俵や規格、規制等を踏まえたところから迎えられていることに気がつきませんか?
仮に気がついても、行政が準備したイス・テーブルなどに改善、修正の注文をつけることに終止している。
実はそうではなくて、第三者に「これがいい」「これでいいんだよ」とあてがわれるのでなく、まず、患者自身が「これがいい」と主張すべき順序のものだと思います。
患者(医療消費者というべき)といっても個々人の考えがあり、一様でないにせよ、少なくとも患者にとって不利でない条件が整っていることは、その権利の行使は自由ですし、反対する人は極めて少ないと考えられます。
で、私の考える患者としての立場からの主張はつぎのようになります。

1 医療情報の提供、医療記録の開示の目的

それは、「個人の自己情報を知る権利」であります。これが正しい理解で大前提です。
私達、つくる会の『患者の権利法要項案』でいうところの「医療における基本権」で、その中身の知る権利、医療に対する参加権、最善の医療を受ける権利、平等な医療を受ける権利、自己決定権、へと活かされるためのもので、本来保障されるべきものです。
それを厚生省の言う目的「インフォームド・コンセントのための提供や開示である」などと言われると納得してしまいそうだが、それ以前に持つべき権利で、取ったり外したりできるようなものではなく、あなた方(行政や医療者達)が決めるものでもなく、あなた達に与えてもらうものでもないのです。
より良い(最善の)医療を受ける権利のためにも、自己情報を本来の持ち主の私に返して下さい、という論争なのです。「細かいことを」と言われそうですが、一番大事な原点での認識のズレはその先々まで影響し、大きな結果のズレを生みます。

2 提供・開示(複写含む)を始める時期

法や制度なるものは、必ずしも完璧で納得が行くものが初めからできるとは限りません。一度決まってしまうと、鍵を無くしてしまった金庫のように、それが問題であっても、中身はガンとして動かせず、そのままの状態で存在し続けるのです。
ですから、議員発議や、一定の見直し期間を設けるなどして、法案の修正や補足ができるような条項を入れるなど、柔軟なものにしておくことがまず肝要かと思います。そこで施行時期について、案では「準備が整ってから」と言っていますが、それは恐らく混乱を少なくするためにというのがその理由かと思います。しかし、開示のための環境整備と、いのちや健康に関わる情報を得る権利とどちらが重く優先すべきことでしょう。
医療者側が、外出のための化粧が済むまで、患者の健康やいのちはどうなってもいいと言っているわけで、そこでは患者側のいのちは軽いのです。
やはり、ここでも厚生省や医療者側の都合のよい土俵、仕切りでしかありません。
患者にしてみれば、待てないのです。一刻も早く、それなりで良いから必要なのです。もっと言わせてもらうなら、「冗談じゃない!!」です。不整備故の混乱も仕方ないじゃないですか。現状のまま開示を開始することによって、何がどう問題か、何が必要かなどが見えてくる。それらの試行錯誤の期間こそ、ガイドライン作りのための検討期間として非常に重要な意味を持つと思います。
机上で組み立て、一度制度化してしまったら、実用、実体にそぐわなくても、ゆがんだままあぐらをかかれるのだから、それこそたまりません。
今まで、イヤというほど待たされました。開示の開始時期は即刻で、環境整備は平行していけば良いと思います。

3 開示する診療記録について

開示は、原則原本。または、原本と相違ないと確認できるコピー。
但し、患者が充分納得した上で望む場合は、別文書も可。

4 情報提供、記録開示を本人以外にする場合

  1. 患者が治療中や存命中の場合、本人が同意した場合は良いとして、本人に理解能力が欠けているとした場合。

    (イ)誰が、その患者を理解能力に欠けていると判断するか?
    (ロ)次に、本人に代わって、権利の代行者(患者の後見人)がいなければ、開示請求自体あり得ないので、後見人の認定がまず必要です。そこで、患者本人に代わってカルテ開示請求などできる人(家族や第三者機関を含む後見人)を誰が決めるのか。
    意思表示も理解能力もない患者の処遇の判断を、家族に仰ぐこと自体は自然なことだが、家族依存主義による弊害もあり得る。例え、身内であっても患者の権利代行者になり得ない場合もあり、患者の権利が弱められはく奪される心配もあり得る。
    そこで、(イ)や(ロ)の判断を担当医師の裁量権や家族(親族)に託すことだけでは、患者の権利が本当に守られるかは疑問で、特に知的、或いは、精神的障害などを持ち、治療期間を長く要するような患者達には、なおさら慎重な対策が必要です。それには中立的な第三者機関や患者の権利擁護委員などが介在し、患者の人権を侵さないような判断の基準を設け、迅速に対応することが求められます。

    声をあげ、主張できる者の権利さえ確保できればそれで“ヨシ”と評価しそうだが、声を上げられない非常に弱い立場の人達が、ともすると一番後回しになったり、隅っこに置かれて患者の権利論議が進められるのでは、「医療における基本権」にそぐいません。

  2. 患者が亡くなった場合

    厚生省の案では、遺族について触れ、「医療の質の向上に直接関係ないので、遺族には提供開示の対象としない」とあります。この点に関しては、一般的に意見が分かれるところのようですが、いずれの立場も共通認識としているところが、私からみてズレていると思います。それは“遺族の気持ち”という解釈で開示を肯定したり、否定している点です。こういう精神論、心情論こそ、人間的な法律運用の欠けている部分だとは思いますが、私はそれ以前の基本的な当事者である患者の権利の問題として捕らえるべきだと考えます。
    つまり 、1で述べたように、患者へ開示する目的は「医療における基本権」であるはずです。しかし、本来、判断・理解能力があったにせよすべての患者が、自分の意思表示ができているとは限りません。体力も気力も衰え、状況の悪い人はいのちを維持することに全エネルギーを費やし、そのまま、生を終えることもあると思います。或いは、子供の保護者などで、患者の代わりに開示請求できる立場であっても、介護などに追われ、情報提供や開示請求をできないまま、不幸にも患者が亡くなってしまう場合もあり得ます。
    このようなケースでは「医療における基本権」が保障されているかどうか、何も確認できずに患者は亡くなっています。
    ところが、考えてみれば、医療を受けつつ亡くなることは、特別珍しいことではありません。患者の病が重ければ思いほど、患者や或いは後見人にカルテ開示請求などの余裕はなく、そのまま結果として患者が亡くなってしまうなんてことは充分考えられます。にもかかわらず、厚生省案では、仮に精魂尽くして診てきた“家族”であっても患者が亡くなった瞬間“遺族”と呼称と立場を変えることで、今までのカルテを開示することを拒否するというのです。
    つまり、カルテ開示は、気力や知的(カルテ開示の知識)、人的(その時後見人などサポートする人がいるという)能力がある人に限定され、それら何も持たない人は視野に入れられていないのです。開示請求能力(条件)を持たない患者には「医療における基本権」の保障はない、しないということです。具体的には意識不明の重傷で病院に運ばれてきた人や、知的、精神的障害を持った人が何の身寄りも後見人も定める間もなく亡くなってしまったような場合「ハイ、それまでーよ」ということです。
    ナニビトも平等な医療を受ける権利、最善の医療を受ける権利を持つという、「医療における基本権」の保障がこの人達にはないことになります。たとえいかなる状況下にあったにせよ、その患者の「基本権」は保障されなければなりません。第三者機関が、当時、患者本人が開示請求できる状態ではなかったと(早急に)判断し、かつ後見人と認める人が請求した場合は、患者亡きあとも後見人へ開示できるものとすべきです。(*のちに述べる必要な要件に該当)

    厚生省案のカルテ開示の目的が、「患者と医療者の信頼関係や情報共有化による医療の向上」つまり、インフォームド・コンセントのためであるとしているのに対して、私が、1で主張している「医療における基本権」との解釈のズレがここで大きく変わってしまうのです。
    つまり、厚生省は亡くなってしまったら、インフォームド・コンセントはできないから全て終了。遺族は患者ではないから、インフォームド・コンセントの対象ではない。そこで家族は厚生省案という土俵に乗って「遺族の気持ちがあります」と訴えるしかなくなってしまうのです。
    でもそうではなくて、医療における自己情報開示の基本的な考え方は、まず患者の基本権としてあるということです。しかし、事情がありかつ“必要な要件”*が満たされれば、患者が存命か否かに関わらず、本人以外の代理人にも開示できるもので、その結果として、医療の質の向上やインフォームド・コンセントにも生かされ、開示請求する家族のためにも有意義になるということです。

    しかしながら、一方で、一般の人達のなかにも、今の厚生省案でもひとまず段階的に受け入れようではないかという声もあります。でも、この段階的というのは一個人における段階の問題ではなく、患者を選別し、一部の患者の切り捨てを容認するということになります。
    つまり、切り捨てられる対象が自分であるかも知れないということを意味しているのです。患者という弱い立場の中でさらに声を上げられない人達を切り捨てる事があっては、患者の権利という視点は置き忘れた事になります。

    自分の医療情報を知る権利、最善の医療を受ける権利、平等な医療を受ける権利、受けた医療を検証する事を保障される権利が、ナンビトにも切り捨てられることがなく、満たされることが大前提でなくてはならないはずです。
    患者の基本的権利が果たして本当に守られているかの検証なくして、カルテ開示論争は穴のあいた水筒になりかねません。