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入院初体験その二

東京都  小 林 尚 子

ヶ月余りの入院、二つの病院でいくつかのことを学びました。

入院治療計画書は両院同一形式です。但しA病院では最後に患者のサイン、押印欄があり、代筆可です。さらに以上につき主治医から説明を受けたと記されています。
ナースからこの紙を渡され早く代筆するよう要請されたのは入院の夜でした。印鑑がないことを理由に代筆を延ばしました。何も説明を受けぬまま署名押印したら、これは形式上インフォームド・コンセントですが、医療サイドの一方的なものです。家族がまだ病院に到着しないまま、もし本人が機械的に署名、押印すれば、本人の同意があったことになり、手術も可能です。書面上、何の落ち度もない医療側に好都合なものです。結局この計画書は転院まで提出せずに終わりました。
B病院のそれには患者署名欄がありません。その代わり検査結果をもとに手術の必要性を医師、ナース、患者と家族が一緒の場で話し、手術承諾書などに署名を求められました。
これならば納得のサインが出来ます。術後も結果を知りたがる母の求めに医師の説明がベッドサイドでありました。
最初「二本釘を打ち込んで…」と話だけ。これでは分からないのでレントゲン写真の提示を求めました。今後も同じ様な病状の人にもこの様な形で分かり易く説明してほしいという願いを込めてのものでした。何でも話してみるものです。
母にとってナースコールという言葉は馴染みがありません。さらに入院当初仰臥位、絶対安静ではボタンを押すのも難儀でした。完全看護の問題点です。ブザーという言葉はと思いつき「用事があったらこのブザーを押すのよ」「ああ、ブザーね」納得してブザーを押すことを覚えました。

む人がいちばん接する時間が多いのはナースです。A病院ではナースとの会話はほとんどありませんでした。B病院での母は人が変わったようにナースとの会話を楽しみました。
"おばあちゃん"でなく、名前のある個人として接してくれたからです。単におじいちゃん、おばあちゃんというのは差別だというのが母の持論です。同じ目線は姿勢の問題だけでなく心で向かい合うことです。
B病院では病室に名札がありません。歩き出したある日、廊下に出た母は自分の部屋が分からなくなりました。考えてみると転院の時はストレッチャー、部屋番号など告げられぬまま始まった入院生活です。徘徊で片付けられかねない出来事にナースは病室の扉に赤い大きな造花をつける対応をしてくれました。長い番号より余程効果的な目印となり、以後迷子事件はなくなりました。
いつものこと、お見舞いの問題です。動けぬ姿は見せたくないという病人、どうしても会わせろという人達、これはどうにか出来ないものでしょうか。母より年上の伯母(父の妹)に誰が知らせたのか定かではありませんが、くすんだ顔色でしかも付き添いつきでその伯母が見舞いに来てくれました。病人が病人を作ってはいけないそんな気のする訪問でした。母の退院と入れ替わりに伯母の入院の知らせ、そして約三週間後かえらぬ人となってしまいました。すまないという気持ちが消えません。

人の洋子さんが自宅に新鮮な野菜、手作りの煮物を持って来てくれたのは、買い物も出来ず病院通いに疲れはじめた時、その時の有り難さ、うれしさは忘れられません。
Oさんは晩秋の花々や私の好物の小葱、その中に菊をみつけた母は花屋さんにない本当の花の花の香りがすると大喜びでした。
つくる会の私の拙文を読んで下さったYさんの絵葉書は自分が旅をしているような元気を私に与えてくれました。
こうした暖かい心が面会謝絶の闘いの日々、どんなに私達を力づけてくれたことでしょう。会の皆さん、お見舞いは病人の顔を見に行くことだけではないということを心のどこかにとどめておいて下さい。
病院通いの道筋に調剤薬局の数が驚くほど増えています。うまく機能してくれることを願います。

れなりに良い子で入院生活を過ごした母は退院後、その反動で苛立ち、気性の激しさも戻りつつあります。周囲はしんぼうの日々です。
ある日母の言葉、「入院生活は疲れるし体力がいるものだね。私にまだこの体力が残っていたなんて驚きだよ」複雑な思いで聞きました。そうです、病院生活は気が許せぬ緊張状態を少なからず強いられます。それに耐える体力が必要なのです。蛇足になりますが、病院経営上やむを得ないとはいえ、差額ベッド代はやはり大きな負担です。B病院で確保できた空きベッドは一つ特別病棟のそれでした。一瞬ためらいがありました。母が自分の葬儀用にと貯めたヘソクリでどうにかまかなえました。生きて使ってくれて良かったと思う気持ちと、受けたサービスは特別病棟だったからだろうかというかすかな疑問と医療は金で買わねばならぬのかという気持ちがぬぐいきれません。

母は杖を片手にリハビリ中、第一章ドタバタの幕開けです。