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入院初体験 その1

東京都  小 林 尚 子

んぼの中にぽつんと100床程のA病院が出来たのは10年程前のことです。その後、駐車場の拡張、調剤薬局、ちょっと離れた所に最近系列の老人ホームの建設も進んでいます。ある程度の規模の病院が出来ると周囲に食堂、雑貨屋などが出来て、何となく一部落を形成するものですが、何故かA病院の周囲に目新しい店は出来ません。唯一葬儀社の看板が道路の向かい側に増えました。

晩秋の一日、母との時を過ごしての帰途、何気なくそんな光景を眺めてから二日後、母転倒の報が入りました。猫を追いかけ勝手口のコンクリートに転倒したとか、駆けつけてみると既に母は知人の車で病院へ行った後でした。しかもA病院、少なからず厭な予感がしました。
身の回りの品を持ってA病院へいくと、母は病室で右足を牽引中、前回怪我をしてから折にふれ「今度は大腿骨骨折、そしてボケるかもしれない」と注意していたのにやはりやってくれました。
病室は完全看護、建前上付き添いは許されません。許可願いを出して泊まることにしました。補助ベッドもなく、寒い病室(患者発熱のため暖房は許可できないという)での一夜です。この日主治医と会う機会はなく、ナースから渡された入院治療計画書には、二日後治療方針について話し合う旨の記載が添えられています。病名は右大腿骨頚部骨折の疑い。

一夜明け、朝食がベッドから離れたテーブルにポツンと置かれました。仰臥位、絶対安静、そして完全看護、どう食事をとれば良いのかとナースに問いました。今回問答が多いので、勝手文体ご容赦の程を!
仰臥位だからオムスビにした。それはありがたいがテーブルには手が届かない。汁物はどう摂るのか。介助はしてもらえるのか。大部屋に移れば出来る。分かった、では家族は泊まります。これから一ヶ月余り、片道二時間以上介助に通うのは大変なこと、この日妹は介護する側の住居に近い病院探しです。この際私達は良い病院の基準を同じ病気で手術、入院を体験した人達の声で決めることにしました。
老いた母が気になり、こうした情報に敏感になっていましたので、B病院のベッドを確保し、周囲の者の気持ちは一刻も早い転院に決まりましたが、あくまで決定は本人次第です。
三日目、治療方針の説明、対面した医師の名札は主治医と違います。どうも週末勤務の医師ではないか…。

「大腿骨頚部骨折ですね。痴呆によるものでしょう。転位の度合いは小さいけれど、手術した方が良いでしょう。ちゃんと固定しておかないと痴呆が進んで、又転んでとくり返すことになりますから。」

ここで私が胸部レントゲン写真の陰影(古い結核の傷跡です)と麻酔法について質問。

医師「何ですかね、この胸の陰、まあ腰椎麻酔だから大丈夫でしょう。」

腰椎麻酔だって危険はあるのよ--これは私の声なき声。

私 「今、患者を移動可能か?」
医師「可能である」
私 「では介護する者の近くに移したい」
医師「しかし、どこだってベッドが空いている筈がない」
私 「すでに確保した」
医師「ではどうぞ」

かくして二週明けの転院をその場で決定です。
入院後主治医の病室訪問はありません。母自身も来院時外来での診察以後医師の顔は見ていない。説明する医師は患者の顔すら知らない状況でした。確かに老人の骨折は多いし、痴呆の率も高いでしょう。骨折の老人が入院した。だから痴呆であるという方程式での診断です。
母はすばやく問答する(反応する)能力はありません。耳も遠いからナースに応答しないこともあります。痴呆による理解力低下というナースの記録を垣間みました。病室に戻り医師の名を告げると「痴呆」の母は「それは主治医ではないし、入院後医師には会っていない。ナースは来る度に手術日決まったか、早く決めてもらわないと器械の準備が出来ないというけれど、私は手術に同意していない。この病院はどうなってるの?ちゃんと診てくれる所に移りたい。」そして更に「今は病院経営苦しいから人件費節約のため医師の数を減らしているのだろうね。」本人の転院意志確認です。

亡夫が最期の治療を託したのは私と友人の洋子さん、彼女は短い言葉で的確に判断してくれる医師です。転院を決意しようと考えていた時、「もう一度、プロに診てもらった方がいいんじゃない」正確であります。

転院の朝、はじめて白衣の男性出現。主治医かと思ったら手配した寝台車のスタッフ、かくして主治医の顔を見ることもなく五日間、B病院へ移りました。
転院してベッドに移ると同時に医師、ナース来室。A病院での体験からここで私は母をまじえてのきちんとした治療方針の説明を要望し、耳の遠いことも伝えました。
超スピードの検査、手術の必要性の説明に母も納得。ただし「私の右肺はひどい状態だと思う、麻酔は大丈夫か」と問いかけました。麻酔医の訪問でこの件も納得、痴呆というA病院の紹介状を手にしたナースが「しっかりしているじゃありませんか」
翌日、一時間余りの手術で「やっと治療がはじまったのね―」となりました。手術決定前主治医と私達との間に興味深い会話がありました。

医師「患者さんは転倒前、歩いていましたか?」
私「歩いていましたよ。だから外で転んだんです」
医師「歩いていたの一年前ってことないでしょうね」
娘「違いますよ。私、祖母と前日散歩しました」娘は少々憤慨しています。
医師「いや、ごめんなさい。歩いていたなら一日も早く治療して歩けるようにと‥」

いつ頃まで歩いていたのか分からないという状況で入院する患者さんもあるということです。

術後三日目からリハビリ開始、ナースは一時間毎に巡回してくれますが、しばらく家族は泊まり込みです。それは会話の必要性と入院初体験の母のショックを考えてのことです。前回の怪我と違い、本人は頭のモヤモヤは少ないと言いつつ、時々どこにいるのかと混乱がみられます。特に娘の泊まりを大歓迎です。孫だから自分が優位に立てるからでしょう。娘も進んで参加しています。

「おばあちゃん、介助が下手でごめんね。いろいろ教えてね」

そんな言葉に母は私に向かって「この子は何もかも承知して馬鹿になって恩に着せないね」まだ母の入院は続きます。両病院で感じたことは紙面の都合でもう一度書かせてもらいます。

余談ですが、搬送寝台車のスタッフはすばらしい人達でした。どのような人の搬送が多いのか尋ねたところ、長期入院の老人が主とのこと。現在の保険医療制度では長期入院のメリットはありません。次々と病院を移るおなじみさん、その度に住居から遠くなる。時には連絡がうまくゆかず、あてもなく途方にくれることもあるとか、高齢者医療の一面、やりきれぬ思いがしました。

んな医療がうけられるか。それはどの病院、医療者を選ぶかです。そしてやはり病む側の責任選択にあるようです。日頃元気な時は考えられないけれど、方々にアンテナをはりめぐらし、体験者の病院体験情報はしっかり集めておく必要があるでしょう。

術後一週間、歩行許可は出ていません。それでも母はちょっと目を離すと一人で立ち上がり歩いてしまいます。
ここに移ってよかった。本ボケにならずにすんだ。歩いている姿をみつかると「痛くないから歩いて良いんだよ、車椅子での退院はごめんだから」と言います。止めても無駄です。「血圧正常、食欲あり、悪いのは頭だけ、これが困ったものだ」ブツブツ言いながら又立ち上がっています。
「転んでも病院だから安心だ-」こう答える以外ありません。こういうワガママな患者と家族は病院にはありがたくないでしょう。でも早期リハビリ、早期退院を目指し、病院経営に貢献しているのです。
暇をもてあました母は病室で孫に編み物を教えています。
「私は何も遺せないけれど、この子を編み物が出来るようにすることが、最後の仕事です。それでボケも少し止まってくれるだろうから」そしてさらに、
「A病院で痴呆って言われたけれど、その方の治療はどうするの?」その言葉だけはしっかり頭に残っているようです。

みっともない姿は人に見られたくないからとお見舞いは断り続けています。
それ故、家族と見舞客とのいつもながらの押問答。相手を思いやる前に義理という世界も続いています。