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感染症新法・その後

東京都 弁護士  安 東 宏 三

平成一〇年九月二四日、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(いわゆる感染症新法)が国会で可決され、成立した。本年五月二〇日号「けんりほうニュース」でお知らせした法案の問題点は、その後どうなったのだろうか。  

まず、国会での審議日程をご紹介する。本法案は、前国会(第一四二回国会)で一旦継続審議とされ、今夏の参議院選挙を経て、今国会(第一四三回国会)では再度衆議院から審議が始まった。しかし、衆議院厚生委員会での実質的審議日程はわずか一日。九月一六日には厚生委員会で可決され、その後本会議の議決を経て参議院へ送付、参議院国民福祉委員会でもわずか一日の審議で可決、成立に至るのである。前国会終盤、衆参両院の参考人意見陳述を通じて様々な未解決の論点が浮き彫りにされたにもかかわらず、再開後の国会論議は、衆参合わせて実質僅かに二日。本質的な議論が遂げられないまま法律ができてしまったことは、誰の目にも明らかである。

このような転帰を辿った原因は、法案の問題性が国民的な議論にまで高まらなかったことに尽きる。政党間の舞台裏の駆け引きについては省略するが、結局、今国会では、専門家をも含めた世論の関心の低さを背景に、「法案全体の抜本的な議論のやり直しをしよう」という枠組み設定の動きは不発に終わり、前国会での修正協議の上にどこまで上積みが可能か、という形での綱引きになった。このため、多くの重要な論点が十分に議論されず、今後に先送りされる結果となったのである。

しかし、今国会での議論に全く実りがなかったかといえば、そうではない。前記のような制約のもとでも、一定の注目すべき修正が施された。
その第一は、我が国の感染症政策の基本的方向転換が法律に盛り込まれたことである。
本法律には前文が付けられ、そのなかで「我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。」との一文が挿入された。極めて異例のことである。(なお、政府提案の法案で、当初入ってなかった前文が議員提案で付されたケースは、おそらくこれが初めてではないかと思われる。)
また、衆議院の付帯決議冒頭にも、「政府は、我が国における感染症政策の基本思想において、本法律をもって過去における社会防衛中心の政策から感染症予防と患者等の人権尊重との両立を基盤とする新しい感染症政策へと転換しようとするものであることを深く認識して施策を実施すべき」云々と宣明され、宮下厚相も衆議院で「パラダイム転換である」と答弁している。
このように、旧伝染病予防法にはおよそ欠けていた人権主義という新しい認識のうえにたって、今後の我が国の感染症政策を進めるべき政府の責務が、本法律により、明確化されたのである。
また、感染症患者に良質かつ適切な医療を保障するという本法律の基本的な立法目的を明確化させるため、医師の責務の規定が修正され、あるいは、我が国の感染症政策を国際的な保健衛生政策の動向にリンクさせるという枠組みが意識化されたことも一定の収穫である。

ところで、本法律のもう一つの特徴は、法律成立後に厚生大臣等が定めることとされている事項が非常に多く、その中身次第では法律の実際上の性格が大きく変わる、ということである。(参議院の参考人陳述で、鈴木利廣弁護士は本法案を「空き箱法案」と呼んだが、言い得て妙である。)
たとえば、我々東京HIV原告団・弁護団では、新しい感染症法制に最低限不可欠な要素として、(1)過去の感染症政策を反省し価値選択の転換を宣明すること、(2)患者の権利とインフォームドコンセントを中核に据えた感染症医療の基本姿勢の確立、(3)感染症を理由とする差別の実効的排除、の三点を主張してきたが、とりわけ(2)、(3)についての具体的議論は、法成立後に厚生大臣が定める「基本指針」「特定感染症予防指針」等の議論に先送りされた経緯がある。厚生官僚は、「基本指針を作るときにちゃんとやりますから、法案は通して下さい」といって議員に個別レクをして回ったのである。
ところが法律が成立し、現在、「基本指針」策定のための公衆衛生審議会(伝染病予防部会)の議論が進行中であるが、その雲行きは極めて怪しい。部会では、11月25日現在、基本指針案が提示された段階であるが、指針案から窺われる感染症政策の基本姿勢は依然として予防偏重であって患者を中心に据えた医療というには程遠く、また、差別排除のための実効的施策も全く盛り込まれていない。そもそも、部会メンバーは殆ど医療及び行政関係者で占められ、患者代表も、マスコミ代表も、弁護士も一人も委員に選任されていない。国会論議の中でようやく到達したかに見えた感染症政策の「パラダイム転換」も、ここにはまだ及んでいないことを感じざるを得ない。
感染症は危機管理の文脈で捉えられやすい側面をもつ。しかし、われわれの誰もが、いつ感染症に罹患するかもしれない可能性をもっている。危機管理が声高に叫ばれるとき、一番弱い立場にある感染症患者の人権をどう保障するかは、我が国の医療の在り方の根底にかかわる。今後「基本指針」、さらには「特定感染症予防指針」等の策定作業が続けられるが、一層の監視が必要である。