東京都 小 林 尚 子
生あるもの必ず死す。その死は平常であり、生き方と死に方は人そのものをあらわすと聞きます。果たしてそうなのか?確かに死は必ず訪れ、何人もそれを避けることは出来ません。
出来得るならば安らかに死にたいと願いますが実際は思うようにはゆきません。その一端は医療が担っているという考えもうかびます。それはここで述べる必要もない程多くの人が感じ、又体験していることでしょう。
過激な言い方をすると合法的殺人が出来るのも又医療者です。だから私は若い医師に常にこのことを念頭に、命を軽視せぬ医療をしてほしいと話します。死に向き合うことが多いから、それに馴れ命の重さを軽んじることがあってはならないと思うからです。
我が家の住所録(九割は患者さん)では故人を消すことはありません。その方は個人としてではなく、遺された家族の一員としてずっと住所録で生き続け、その方の思い出、家族の方々お元気ですか?私たち忘れませんよというメッセージを送り続けるためであり、同時に医療者としての日々がおろそかにならぬために大切なものです。
愛する人の死は大きな悲しみであり、同時に周囲の人々とのかかわりが今までと一変することがあります。それは悲しみの中で周囲の人の何気ない言動でも常とは違って受け取っていることもあるかもしれません。
私より数年前に癌で夫を亡くした女性と話していた時のこと。突然"ご主人の年令どうしてますか?"との問いがありました。私は夫の声を聞けなくなった時から、又再会する時、もしかしたら年令逆転で夫が戸惑うかもしれないと暦年令を共にストップしています。彼女は自分と共に夫も年を重ねる方法を選びました。死別後転居、その時表札は元のまま、夫の名前も残しました。町内の催し等の通知があると"主人と相談してから"と話し、又子供たちと物事を決める時には必ず"お父さんに相談して"というのが日常で何の違和感もない生き方とのことでした。ただここに至るまでには色々悲しい思いがあったらしく、この世から未亡人という言葉をなくしたいと願っています。
"未亡人のくせに""未亡人だから""母子家庭だから"何気なく発せられるこうした言葉に何度となく傷つき、せめて自分たちだけは同じ立場の人にこのような言葉を使う心は持つまいと思った末に到達した境地です。この気持ち痛い程分かります。愛する人との別れ、その後時に専門家のカウンセリングを受けている人、夫の死後二年何をする気力も失せて病院生活をした人、でも入院生活の出来た女性は振り返ってそれが許された自分は幸せだったと言います。周囲が表立って文句も言わず、癒しの時を持たせてくれたからです。
多くの場合、周囲はそれを容認してくれません。夫と故郷へ何年振りかで旅行を計画し、出発目前に夫が急死した女性がいます。故郷の友も心待ちし、何よりその日を夫が楽しみにしていました。初七日をすませ、奥さんはその夫の想いを果たすべく旅へ出ようとしたところ親族の猛反対、一年間は旅行など不謹慎と攻撃され断念しました。なぜ不謹慎なのでしょう?それが常識というものなのでしょうか?理解しがたいことでありました。
先日娘と何気なくTVドラマを観ていた時のことです。前後の筋は不明、ただ母親の死をめぐり、遺志はひっそり見送ってほしいというものだが、周囲の人々が盛大でなければいけないという場面でした。何だか涙をこらえきれぬ瞬間、でも娘に涙を見せまいとこらえました。その時娘が急にテレビに向かって話しかけながら泣き出しました。
「どうしてお母さんの願い叶えてあげないの?心を分かってよ。自分たちの面子じゃないでしょう!」そして私に向かって、「お母さん悲しいね。お父さんの時と同じ。イヤダ、人って悲しいよ。知らないで残酷になれるんだもの」たかがドラマ、されどドラマ、という訳でドラマの一場面で大泣きした次第です。
少し会の趣旨と離れたことを書いています。医療の最終地にある死、その後に来る数々の出来事、事務的なことはそれなりに進みます。
残る心の問題、人はどこまで相手を考えて行動出来るものなのか私自身悲しい現実と狂気にも近い状況になったことがありました。それを理解してくれた人はほんの一にぎり、でも私にとっては何物にもかえがたいあったかい心の宝物です。そして白紙で出会ったつくる会の方々にも暖かい心をいただき違う世界に住む思いのするこの頃です。
愛する者を失って何もすべての人にやさしさを求める欲張りはいないでしょう。ただ口撃(と感じてしまうような)は情けなくみじめです。少しずつ身じまいを考えながら残された日々私に出来ることは多くありません。未亡人という言葉をなくしたいという女性の心を考えました。そう、もう一つ医療の延長上にある残された者の心、これも大きな課題だったと気付きました。