渡辺 優子
「子宮筋腫でコブだけ取る手術のつもりだったのに目が覚めたら子宮を取られていた、なんてことはないですか?」
つい先日、私たち「子宮筋腫・内膜症体験者の会たんぽぽ」に実際に寄せられた相談である。こういう設定のTVドラマ「くれなゐ」(日本テレビ系、渡辺淳一原作、川島なお美主演)が放映されている影響に違いないと思い聞いた所、やはりそうであった。
原作は一九年も前の小説。文体もいかにも古くさいだけでなく、子宮を失った主人公が「もう私は女性ではない。あなたに愛される資格はない」といった発言を繰り返すゲロゲロもんの小説だが、これをわざわざ一九九八年のこんにちのドラマ素材としてもってきたのは、ヒットしたドラマ「失楽園」と同じ作者、女優で、同じようにセックスシーンをたくさん出せるものを探し出した結果に過ぎない。
「たんぽぽ」ではドラマの放映二カ月前にこのドラマの計画を知り、企画の安直さに驚愕し、また子宮筋腫に関する誤った認識が流布する恐れがあることから、TV局に意見書を送付した。趣旨は、原作の設定はきわめて異例なものだから、子宮筋腫について現在の医療常識をふまえた正しい内容のシナリオにしてもらいたい、ということを中心とした。
これに対し、放映の二週間前に、担当プロデューサーから「医学的に正しくふまえたもので、決して不安をあおるものではない。医療ミス的な問題もドラマ後半の展開に関与していく」など、長文で、ある程度丁寧だと評価できる内容の回答を得た(全文に関心のある方は、当会のホームページhttp://wom.vcom.or.jp/j/GROUP/tammpopoをご覧頂くか、たんぽぽの賛助会にご入会いただきたい。会費は3000円。郵便振替「00240-0-9783たんぽぽ賛助会)。
実際のドラマがどうなったかについては、これは私個人の感想だが、やはり腐った素材によるドラマは腐った料理にしかならない、と思える内容であったが、ただし医療に関する部分について、確かに最低限必要と思われる内容は網羅されていた。しかし、元からその疾患についての知識がある者が注意深く見るのと、一般視聴者が娯楽として見る場合とでは、違いが生じるのは当然だ。結局、冒頭に書いた質問のような不安を視聴者に与えることは必至であり、企画自体が好ましくない素材であったことに変わりはない。こうした影響を考慮せずに、「表現の自由」をタテにとり、「売れれば何をしてもいいんだ」といわんばかりのメディアの態度は、本当に無責任で無神経だ。
ドラマにはいったん、主人公ではなく、恋人が「医療過誤として訴える」と主人公に説明するシーンが登場した。「理性的、行動的なのは男、女はかよわき(愚かな?)者」と強調したいのか、それもあまりにアナクロで呆れるが、そもそも第三者が医療過誤を訴えるなんてことができるものかどうか。常識的に考えてもおかしいと思うのだが、さて専門的にはどうなんですか?弁護士の皆様。
まあ仮に不可能でないとしたって、子宮という臓器が恋人や夫の所有物でなんかあるわけないだろうが・というわけで、このドラマの安直さは果てしないし、まして恋人は情報収集で動くうちに父親が医師会の大物だという当の医師からの圧力で仕事を失う、というストーリーだから、あと二回残ったドラマ放映で主人公が司法的解決をめざす、というような展開は、まず望めそうにない(この記事の掲載時には、最終回も終わっているかもしれないが間に合えばご覧いただきたい)。
医師が恋人の職場に乗り込んできて、判例資料をドン!と置き、「勝ち目はないんだぞ」と威嚇するシーンすらあった。この表現から視聴者が何を学習するかといえば、医療裁判はやはり勝てないとか、特に不同意の全摘手術を不当として訴えても負けるんだな、ということなどだろう。
しかし、実際に核出のつもりで全摘された女性が起こした裁判では、原告勝訴の判例が既に出ている。だから、ドラマ表現は明らかに誤った情報を流しているのだ。プロデューサーが「正しく表現する」と約束したのは医療面についてだが、だから司法についてはいい加減でいいわけは、なかろう。
実質的に不同意の子宮全摘手術は、実は水面下に多数ある(はずだ)。権力にはやはり刃向かえない、という印象を強く与えるこのドラマの社会的責任は、制作サイドが考えているよりずっと重い。しかし、メディアは、腹立たしいほど、無自覚だ。
メディアの医療・司法表現における問題で、もっともっと掘り起こすべきことはたくさんあると思う。今回、局から放映前に回答を得たことは、一定の成果だったと私たちも考えているが、こうした活動が一つの潮流になるにはまったく至っていないことが残念でならない。個人個人、今以上にもっとメディアチェックしていくべき時代ではなかろうか。