星塚敬愛園 島 比呂志
私は新憲法が公布された翌年(昭和二二年)六月、国立癩療養所大島青松園(香川)に入園、一年後の六月、国立癩療養所星塚敬愛園(鹿児島)へ転園、以来五〇年、強制隔離の中で一貫して執筆活動に明け暮れてきた。そしてそのテーマは、入園当初に経験した二、三の出来事に由来している。一つは、半強制的に優生手術(断種)を受けさせられたこと、二つ目は自作の短編小説が園長検閲によって発表禁止処分を受けたこと、三つ目は忘れもしない昭和二五年五月三日の憲法記念日に、園長が一人の病友を退園処分にした事件で、二年間抗議行動を続けた結果、五日間の監禁と一年間の公職停止処分を受けたことなどである。
以上のような事件に出合って、私は国家権力の非人道性、非人権性を痛感した。ここは新憲法の及ばない異国なのか、癩患者は人間ではないのか、日本人ではないのか、と苦悩した。したがって私の文学は、人間回復を模索した道標のようなものであり、その旅は今も続いている。
ところが平成二年六月、エイズ裁判原告第一号の赤瀬範保(本名文男)氏からの第一信を受け取って以来、私の旅に迷いが起こった。私がショックを受けたのは、その便りに現れた、「癩患者はなぜ怒らないのか」という文言であった。赤瀬さんは翌年、自著『あたりまえに生きたい』の出版直前、脳卒中でこの世を去られたが、彼が私に残した文言は、折に触れて私の心によみがえり、「なぜ怒らないのか」と語りかけてくるのだった。
「法曹の責任」(平成七年七月「けんりほうニュース」四八号)を書き、これを資料として九州弁護士会連合会に申立書「らい予防法・優生保護法について」(平成七年九月一日)を提出したときも、赤瀬さんの文言は耳鳴りのように響いていた。そして九州弁護士会連合会が組織を挙げて動き出したとき、私はその成功を喜ぶよりも、とんでもないことになったという不安な思いの方が強かった。しかし九州弁護士会連合会の活躍は私の不安を吹き飛ばしてくれたし、また私には不安に浸っている時間がなかった。テレビ、新聞の取材、原稿の依頼、進行中の二冊の自著の校正、主宰文芸誌の編集と、この六カ月間は寝込まなかったのが不思議なほどの忙しさだった。「らい予防法の廃止に関する法律案」には不満だらけであったが、ハンセン病問題の一つの区切りとして、らい予防法の廃止だけは実現してほしいと祈っていた。そして法案は会期切れになる寸前国会を通過、「らい予防法の廃止に関する法律」(略して、廃止法)は、平成八年四月一日に施行されたのだった。
あれから二年、入所者の人権は回復したであろうか。あれほど待望久しかった「保険証」は、手にすることができただろうか。廃止法附則第一〇条は、国民健康保険法第六条第八号中から「国立らい療養所の入所患者」を削除した。つまり私たちも加入が認められたわけである。ところが厚生省と全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)は、省令(施行規則)をカラクリして加入できないようにしているのだ。国会で承認されたばかりの法律を軽視した、このような国民的差別、このような人権侵害が許されてよいものだろうか。
私は抗議の文章(「保険証おあずけ」平成八年九月「けんりほうニュース」六二号)を書き、これに応えて「ハンセン病の医療と人権を考える会・北九州」が全国的な署名運動を展開、すでに一万七千名の署名簿は昨年三月厚生大臣に提出、今年はさらに多数の署名簿が提出されるはずである。しかし厚生省は、「入所者の希望で仕方なかった」と弁解、またマスコミは入所者団体に遠慮しているのか、積極的に取り上げようとはしない。このまま何年署名活動を続けても、入所者が「保険証」を手にして、やっと人並みになれたと喜ぶ日は訪れないだろう。私はむなしい思いの中で、次第に読者や署名参加の市民に対して、責任を感じ始めたのである。私はどう責任を取ればよいのであろうか。
社会復帰者に対する支援問題でも、私は多くの文章で訴えてきた。中でも平成八年二月六日の朝日新聞「論壇」に書いた「らい予防法廃止の落とし穴」は、国会審議の中で二度も菅直人厚生大臣によって引用され、「社会復帰の実現がなければらい予防法廃止の意義がなくなる」との文意を肯定、社会復帰に対する誠意を表明している。にもかかわらず、先日(三月四日付)厚生省が発表した支援策は、一人一五〇万円の一時金だけである。障害を持つ平均年齢七三歳の老人が、一時金一五〇万円で、どうして社会での生活ができるのであろうか。私は菅直人氏に直接お訊きしたい。国会で答弁された社会復帰者への支援というのは、今回厚生省が公表した涙金程度のものであったのだろうか。私は何とかして菅氏の真意をお訊きしたい。そのことが私に可能だろうか。
間が抜けた話だが、優生保護法の一部改正で、優生手術と妊娠中絶に対する「らい条項」は削除されたが、その被害者に対する陳謝や補償については、一切質疑が記録されていないことに気付いたのは、ずいぶん後のことだった。すべてが時効ということだったのだろうか。しかし被害者は現に、子供も孫もいない孤独な老後を生きているのである。私は国に訊いてみたい。一片の癒しの思いやりもないのであろうか。
私は悶々の日々の中で、赤瀬さんが揮毫してくれた「夢蝶」という書の作品を取り出しては眺めた。書家であった赤瀬さんは、中国の故事「邯鄲の夢」の「浮生蝶夢中」から二字を選んだ、と説明していた。
赤瀬さんは幼い頃から血友病に苦しみ、その上に薬害エイズ感染者だったが、じつに明るかったという。私のように考え悩み、それを文章で訴えてみても、国も社会も変わりはしない。「夢蝶」の書が語り出したのである。「島さん、五〇年も苦しんだら、もう沢山でしょう。すべてを法の裁きにまかせて、楽になりなさいよ」
私は友人に電話して、表装を依頼した。私が法廷に立つ日、赤瀬さんの書を応援旗にして、出かける決意である。
赤瀬さん、余りにも遅い決意を笑わないでほしい。牙を抜かれ、五〇年間檻の中で忍従の日々を送ってきた老残の身が、やっと示した小さな怒りの火を。
(一九九八・五・三 憲法記念日)