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頭の霧が少しはれました

小林 尚子

の息吹きに人の心にも暖かさが感じられるようになると共に、母の日常も少し以前に戻ったようです。ただ日によって波があるのは仕方ありません。
具合の悪い日に当番の者は「ボケたのではないか?」と感じ、良い日に当番の者は「すっかり元気になった」と感じます。当初ボケた、いや違うという論争がありました。何度か当番を繰り返すうちにその両面を見るようになり、波を受け入れてゆくゆとりが出てきました。

る日、訪れた私に「頭の霧が少しはれました。歯がゆい思いの連続だったけど、物が考えられるようになりました」と母が嬉しそうに話しかけました。しかし冷静に観察しているとやはり以前の母とは違います。単なる物忘れとは思えないほど激しい忘れ方、昔の事ほど鮮明に語ること等々。裁縫をする手先は昔と変わらぬ速さと器用さですが、ふと洗濯機の前で「何をするんだっけ」と考え込んでいます。
再度怪我をした時のことを尋ねてみました。タンスにつまずき、の痛みが激しく、痛い、痛いと叫んでいたこと、身体は動かせるのに皆に無理矢理寝かされたようだとこのあたり、気性の激しい母らしい記憶の仕方で、さらに動けたのだから起きていれば良かったともつけ加えました。

たきりはつくるものだという言葉をふと思い出しました。母のありのままを受け入れるまでにはそれなりの葛藤がありました。転倒三日目、身内が集まった食卓で誰からともなく、もしこのまま状況が改善しない場合、母をどうするかという問題提起があったのです。
「動けなくなったらどうしますか?」叔父から母への問いかけでした。「家にいたいけど無理かしらね」「皆が通うにも限度がありますよ。出来るだけ家で過ごせるようにしますけどもし万が一の時のことですよ」「西片へ行く」ポツリと母がつぶやきました。西片は私の住居のある地名です。さらに「ここに五人の人がいて、一人ががまんすれば、残りの四人が幸せなら私はその五人目で良いよ」ともつけ加えました。
病む側の権利って何なのだろう。物哀しい一瞬でした。そして母はともかく動けるようになりました。

してある日、当番だった妹から興奮した電話が入りました。動きすぎて目が離せないので、母を私の所へ車で連れて行くというものでした。しかしそれを聞いた母は怒りだし、「皆が出てゆけば良い。ここは私の家だ」と居直ったのです。双方疲れて引き分けに終わり、結局移動はないままにその騒動はおさまり、その後霧がはれはじめたという訳です。
一番大変な時、私は母に"頑張って"とは言いませんでした。頑張ろうと思っても無理な時があるのは自身の体験から良く分かっています。母はそれを覚えていて、"頑張って"と言われなかったから、ゆっくり体力を快復出来たと言いました。
何が起こるか分からないけれど、その時々の状況をあるがままに受け入れ、病む人のペースに合わせた介護が大切かと思います。ほんのたまに訪れる人は介護する人、される人の現状を把握していません。それ故色々文句ととれる言葉が出ます。「文句を言うなら助けの手をさしのべる事、それが出来ぬ者は文句を言わない」私の出した通達です。
長く姑を介護している知人も同様の思いでストレスをためていました。彼女は考えた末、文句を言う義理の姉妹に姑を託して三日ほど旅に出ました。
大変さを実体験した人々のきつい言葉は半減したそうです。こうした試みも時には大切ではないでしょうか。
もう一つ感じた事があります。それは母の移送事件の時です。よく場所が変わるとボケが進む、寝たきりになるといわれます。それは事実でしょう。しかしもう一つ病状が進行し、介護する側に限界が来て移動せざるを得なくなる、つまり病状が移動したから進んだのではなく、進む時期だから移動せざるを得ない、そういう場合もあり得るのです。
在宅は言葉では言いつくせない多くのことがあります。特に介護者の負担、その中でも心細さは計算出来ぬものがあるはずです。ダメと言われなかったから母はスナック菓子狂いを卒業し、元の食生活に戻りました。

うして書いている傍らで炊飯器をセットし終わった母は、このところお気に入りとなった推理説、浅見光彦の世界に入っています。本を開く前、「もし本ボケになり寝たきりになったら、私生きていたくないから、ママ一服盛ってくれませんか」と突然の言葉です。
「分かった。心配しなくて良いよ」何という無責任な返答であることか!でもそれを聞いた母は「これで安心、さあ犯人探し」と読書に専念です。安心も大切な治療、出来ぬ約束に胸が痛みながら自分にそう言い聞かせました。
本人が拒否するからもう何日も血圧測定もしていません。すり傷もガーゼ交換をさぼっているうちに自然治癒していました。すべて自然にまかせて、ボケでもオトボケでも良い、本人の希望を出来るだけ活かしてと手探りでの介護の初歩です。介護予備軍の方々に少しでも参考になればと願っています。

後に思いやりは病む者と看る者の間だけではなく、看る者とその周囲の人達にも大切なことだとしみじみ感じるこの頃です。
ほとんど寝ないで一夜母の許で過ごした翌朝、裏木戸からちょっと気分転換に道路へ出た時のことでした。数年会ったこともない近所のおじさんにばったり出会いました。
「こんなに早くどうしたんです」「ちょっと母が転びまして…」おじさんが新聞紙を差し出してくれました。油揚げ二枚、おそらく朝食の味噌汁用に求めたものだったのでしょう。私達の朝食、油揚げの味噌汁の美味しかったこと。最高の贅沢をした気分でした。心の底までしみる暖かい思いやり、こうしたことで介護する者も元気付くんだなあー。この心を忘れられません。