小林 尚子
八〇才をすぎた母は、読書、草花の世話で過ごしています。よく動きます。そんな母が家の中で転倒し、動けなくなりました。考えてみると二〇才台に肺炎で生死の境をさまよって以来、内蔵疾患の既往はありません。その代わり外傷は日常茶飯事、生傷のたえることはありません。加齢と共に転倒、骨折、寝たきり老人という不安が常に私の心にありました。
今回は相当痛いらしく、布団でうめいています。寝たきりを想定した周囲は携帯トイレ、オムツと準備万端です。本人も訳の分からぬうちにオムツをはかされ、何となく病人の様子になりました。運良く骨折はありません。
一日寝て過ごした母は足がふらふらです。支えて数メートルのトイレ迄の距離、Mサイズのオムツが小柄な身体には大きすぎるのに気付きました。その装着も痛いという病人には少々手間がかかります。これは色々な種類を研究してみる必要がありそうです。トイレに行く気力があるなら起きてもらおう。鬼の娘は二日目から台所迄母を連れ出しました。
人の世話になりたくない一心からでしょうか、一週間経過する頃から、掃除、洗濯など日常生活を自分でこなそうという意識が強くなり、周囲はハラハラです。気持ち先行で身体がついてゆかないのです。すべてを禁止せずリハビリ続行というのはまことに疲れます。長年月介護している人達の大変さが分かります。
身体の回復に比して思考のそれは予想以上に遅れています。リズムが変わり、人の出入りが激しい為に、最初自分がどこにいるのか、誰の家なのか、そんな混乱が起きてしまいました。痛さをこらえての見舞い客も応えたようです。
ボケ防止には刺激が必要なのでしょうか。過度の刺激(この度合いが難しい)は混乱のもとになったようです。こうした混乱を減少する為、一日の行動パターンをメモ用紙に書いて本人がチェックしてゆく方法をとりました。
外へ出られないので、まず得意とする編み物再開、次は読書です。根気は前のようにはありませんが、忘れていなかったという嬉しさからそれなりにやっています。こうして一ヶ月余り、まだ監視体制を解く段階ではありませんが、ゆるやかに前の状態へ戻りつつあります。
「ママ(私のこと)の最期を看取らないと私は死ねない」という口癖が出る程にはまだいたっていません。
たった一ヶ月余りの初歩の介護、看る側に各々家庭があり、仕事があり、影響が出始めお互い少々むっとすることもある。人間情けないものです。私自身腰痛がぶり返し、時々母の動きに応じられません。今迄考えなかったことの中にペットの問題がありました。
猫は独りで留守番をするが、犬は毎日散歩が必要、泊まりがけの介護となるとペットホテルを利用しなければならず、この費用も馬鹿にならないらしい。必然的に猫流の泊まりの比重が増すのは仕方ありません。独り留守番の猫もストレスで少々いらつきます。
春を感じさせる陽射しの中である日、
「皆に迷惑をかけたね。お金を出せば看てくれる専門の人はいるだろうけど、それだと私は寝たきりだったかもしれないね。娘だから動けるようにしてくれたんだね」と洩らした母の言葉は思いがけぬものでした。さらに、
「そろそろ身辺整理をしておきたい。どうすれば良いか相談にのっておくれ」「一〇年前にすべきだったのよ。ママだって少しずつしてるのよ。もう遅すぎるよ」
「じゃあ、もうしなくていいの?」
「そう、今は人に迷惑をかけずに生きる事」こんな会話になりました。
食欲も出てきました。怪我をする少し前、母は若者向きのスナック菓子を口にし、何故か気に入ってしまいました。しかし身体に悪いからと周囲はやめさせていたのです。止められると食べたくなる。春の陽射しの中での会話後、止められているスナック菓子を欲しがります。
「食べたい物を好きなだけ食べなさい」私は無謀な主治医かもしれません。
頑として和装を通していた母は今、孫のスパッツとトレーナーです。これはトイレ介助の際、和服の裾が扱いにくいのに気付き、文句の言えぬ弱者の立場にある時抵抗できぬままに着替えさせたのです。これは成功でした。裾を気にすることなく、本人のクレームもなく、時にカラフルなマフラーなどして、八〇才台にしての大変身、しかも介助もしやすくなりました。病んでほんの少し可愛くなった母の一ヶ月余りです。
常に否定してきた「老いては子と孫に従え」という言葉も時折つぶやきます。少しずつボケてゆくような気もします。たよりない応答に看る側はそんな懸念を持っています。ちょっといらいらした時、私達は「明日は我が身、物事は順番」という合言葉で気を静めます。高齢化社会の小さな小さな介護の序章から一幕目の始まりです。そしておそらく長い二幕目に続くのでしょう。明日は我が身です。だから二幕目も楽しく迎えたいと考えるこの頃です。