権利法NEWS

インフォームド・コンセントって?

山田里加・渡辺優子

インフォームド・コンセントに関して、知人と二人で手紙のやりとりをしました。
ほかの方にも読んでいただきたいと思いたち、投稿させていただきます。

渡辺様

今、医療の勉強会を開こうと準備をしていますが、本の中に横文字が多すぎて何の事か分からないと、素朴な疑問が他の会員の人たちから出てきました。私も辞書片手に、という状況でしたので、少しこだわってみたい気がしてきました。以下のようなこと、渡辺さんはどう考えますか?

インフォームド・コンセント・・・日本語では「説明と同意」・・何とわかりやすくて簡潔な言葉!!それがなぜインフォームド・コンセントになって、一人歩きをしているのだろうか?明確さを避けるがごとく外国語を使う医療側。それでなくとも病院では患者は否応なく弱い立場に立たされているので、冷静な判断がとれなくなる。そんな中でのインフォームド・コンセント。・・・何か煙にまかれているようで「そうはいかねえヨ!!」なんてタンカも切れやしない。これって私だけが思っているのかしら?

私自身は、インフォームド・コンセントなるものは、母の生死をかけた心臓手術で、初めて体験した。医師は「危険率70%」と前置きして、手術の際に起こりうるかもしれない、ありとあらゆる危険性をつらつら何のちゅうちょもなくしゃべる。そこにあるのは、こちらが理解しようがしまいが、「言いましたヨ」という態度だけ。そんな中、私はまだ様子が飲み込めないで、おどしのような病名が頭の中をめぐっていた。そんなに大変なら、生きて出てくる可能性なんてないじゃないかと、冷や汗とも涙ともつかない液体が、からだからわいて出ていた。これが説明=インフォームというわけ?

それから、同意=これはとても大切なことなのだけれど、あのときは手術をしていただくんだ、命を救ってもらうんだ、と同意の捺印をした。これが世間で「同意」と位置づけられていることだ。

おかげで、母の命は助かりました。しかし、あのときつらつらと「もしかしたら起こりうる?」と思った症状が運悪く出てまいりました。先生はおっしゃいます。「この症状はたぶん手術中の作用で起こったものですが、仕方ありませんね!! あのときは命が最優先だったから」と。仕方ないことと諦めてはいますが、こうしたことも、それが告知したことであれば、医療側は「告知した中にありましたヨ!!」と、それだけです。アリバイづくり?に使われているんですね。仕方ないのでしょうかねエ!?

あのとき、専門の第三者が立ち会ってくれるというシステムがあれば、私の心の動揺も少しは少なくてすんだのになあなんて思っています。インフォームド・コンセントの「質」の問題もあるような気がしてなりません。しかし、これをどう評価し、質問し、追及するかも患者側の責任なのでしょうか?

なぜ医療側が、インフォームド・コンセントという横文字を使いたがるのか、それが何か医療側に都合がよいから?と思ってしまうのは私だけでしょうか?もっと平易な日本語を使ってほしい!説明や注釈がいるような英語はもうたくさん、そんな思いをしています。

山田里加

山田様

難しいご質問だなあと、まず思いました。だけど、常日ごろ私も気になっている言葉なので少し考えてみました。で、気が早いようですが、先に結論を言いますと、山田さんにはすぐには同意してもらえないかもしれませんが、私はインフォームド・コンセントという言葉は日本語にあえて置き換えないほうがいいと思っています。

なぜかということは、まさに山田さんがお母さまのことで体験されたことの中にその理由があります。つまり、「説明と同意」では、「説明されて、患者によく分かっていなくても、とにかく同意がはっきりしてることが大事だ」という風に、医療側に都合のよい曲がった解釈をされてしまう危険があるからです。

では、ほかの日本語に置き換える場合はどうか。多くの本や人から学んだことをもとに私が試みるとするなら、「病状や治療の目的、内容、効果を医師が十分に説明したことをもとに、患者が医療を選択すること」、短く言うなら「説明と選択」ということになるかと思います。ですが、前者は長すぎるし、後者は「医療は患者が選ぶもの」という社会的合意の形成されてない日本においては、何が何だかわからなくなってしまうと思いませんか?

それから、まさに山田さんもおっしゃっているような、患者の立場の弱さ、また医師と話し合える時間のなさ、その一方での医療技術の変化、医療倫理観の混乱、それらを考えると私は今の時代はもう、たまたまかかった医師一人の意見だけをもとに、医療を決める時代ではないと思うのです。ほかの医師の意見、本などの活字情報、患者団体などの意見、それらと、場合によっては家族や友人などの意見も聞いて、最終的に自分の意思や選択を決定する。なおかつ、それが医師の意見や技術と見合ったものであることを確認した上で、初めてその医療が行える見通しが立つわけですから、そうなって初めて、その医療のゴーサインとなるのが、この時代に合った理想的な医療の決め方だと思います。

それを簡潔な言葉で表現するなら、私はやはり「インフォームド・コンセント」だと思うのです。一見わかりにくい言葉であるのは私も感じますが、この言葉の中身は実は「インフォメーションとコンセント」だと思うんです。

医療はインフォメーションを十分得た上で、医師とガッチリ「コンセント」(たとえて言うならカギとカギ穴、電気製品のさしこみ口とコンセント。つまりぴったり合っている状態のこと)の関係を結んで行う。これが「あるべき姿」だと思います。

インフォメーションとコンセントと言えばもう少しはわかりやすくなるでしょ?それに、先日の調査では(どこが行ったものだったかは忘れましたが)、もう世間でも4人に1人はこの言葉を知っているという時代だそうなので、今さら変えないほうがいいのではないかと。

山田さんの指摘通り、本当はインフォームド・コンセントについては「質」こそが問われるべきだと私も思いますが、そこで発生する責任を医師にばかり押しつける時代でもないと思います。ソーシャルワーカー(そういえば、これも英語ね。確かに高齢者などにはわかりづらくて問題だけど)とか、その他のサポーター(!)・・・援助者と置き換えましょう。・・・そういうスタッフの充実の要望を含め、医療側に質問し、追及し、改善を求めていきましょうよ。私たちのような世代やある程度元気な者たちから率先して!示唆に富んだお手紙をありがとう。もっと多くの人たちともこのテーマで話し合いたいですね。またお手紙下さい。待ってます。

<追伸:インフォームド・コンセントを、医療側が言い出した言葉だととらえていらっしゃるようですが、それは誤解だと私は思います。むしろ、医療の民主化を願う立場や運動から出てきた言葉であって、むしろ医師たちの中には、この言葉の理念を否定している人たちも残念ながら多いくらいですので。> では!

渡辺優子

渡辺様

やっと話の通じる人に出合ったといった感じでとてもうれしく思います。ただ私の言いたいことと少し意味合いが違うような気もしています。インフォームド・コンセントという言葉を、私は、4人に1人が知っている言葉としてではなく、4人に3人も知らないととらえています。もしこの言葉を使うとしたら「説明と選択(インフォームド・コンセント)」と、注釈が英語になってほしいのです。
この言葉の考えは、権利とか主張が出来ている外国からの借り物のように思えてならないのです。それを医療側の都合のよいように使われていると思っていたのですが、違っているでしょうか?

山田

山田様

むやみに外来語ばかり使う風潮はよくないと私も思いますが、でも、場合によっては、大切にしたい外来語もあると私は思います。インフォームド・コンセントも、実はその一つです。山田さんもおっしゃるように、この国では、誰にでも「あって当然」の「権利」が根づいていないわけですが、今後はそういう意識を高めていく必要があるのは賛成していただけると思います。それには、「説明と選択」よりも「インフォームド・コンセント」を使って、それがどういう意味合いを持っているかを、伝え合っていく必要があると思うのです。つまり、「説明と選択」では記号にならないから、力が弱いと思うのです。これは、医療のことというより、やや文化論的な話になってしまいますが。

ただ、山田さんが問題にしていらっしゃるのは、おそらくそういうことよりむしろ言葉の使われ方、ということなのですよね。みんなが言葉の意味をちゃんと確認し合ったわけではないのに、言葉だけが勝手に一人歩きをしている・・・それについては、おっしゃる通りだと思います。だけど、私が思うには、今のこの国の現状では、おそらくまともなインフォームド・コンセントが成立している例は、ほんの一握りなのだと思います。だけど、その事実さえなかなか表ざたにはならない。なぜかといえば、あるべきインフォームド・コンセントの姿というものが共通理解になっていないから。「こんな洋服がほしいなあ」というデザインが思い浮かんでなかったら、その店の服を持ってこられたとき、何か気に入らないということは感じても、どこを直してもらったら気に入るのかお店の人に注文できませんよね。

今はまだ、私たちは、その「お気に入りのデザイン」を探している段階なのだと思います。もちろん、ことはからだや命に関することだから、ほんとは悠長なことは言ってられないんですけどね。だからこそ、こういう運動に携わった人の意見は、ときに「攻撃的」と世間からとらえられてしまうこともあるわけなんです。気持ちは、とてもあせっているんですもの。

長くなってしまってごめんなさい。でもあと一つ言いたい事があるんですけど、実は医療現場には、以前から患者に対する説明を表す言葉として「ムンテラ」という言葉があったのですが、ご存じでしたか? 語源としては確かに「説明」という意味らしいのですが、これが、日本の医療では、「説得」のような意味合いで使われてきた歴史が実はあるのです。医師たちにとって、特に手術前などの説明は、実態は「説得」という意識で行われてきたとみてまちがいないようです。それは、私たち患者側の印象と、非常によく符合しますよね。で、そんな土壌の所へ、今度は「インフォームド・コンセント」という言葉が入ってきて、マスコミの紹介などもあって、普及し始めた。そんな中で、一部の医師たちは、ですから「ムンテラ」という言葉の代替として「インフォームド・コンセント」という言葉を利用するようになった、と私は見ています。私たちが理想とするこの言葉の理念とはかけ離れた所で、使われるようになった。それは、山田さんが憤慨していらっしゃる通りなのですが、だけど、それはこの言葉が悪いのではなく、医療倫理が根づいていない「背景」にこそ問題があると思うのです。何度も繰返しになってしまいましたが、この言葉自体は、決して悪い言葉ではなく、言葉の本当に意味する所を、みんなで育てていくために、必要かつ大切な言葉だと私は思っているのです。偉そうなもの言いになってしまったところがあったとしたら、おゆるしください。それから、山田さんも、この言葉の意味合いを正しく伝えていくためのメッセンジャー・・つまり伝達者になっていただけたらと、私は思います。

渡辺

渡辺様

「ムンテラ」という言葉は、初めて知りました。医療側はやはり、この言葉の代替に使っていますね。それなら、ピッタリときます。「インフォームド・コンセント」という言葉については、貴方のおっしゃる通りなのかもしれませんネ。きめ細かい日本語になおそうとしてもピタッとくる言葉がないのは、日本の土壌の問題なのかもしれませんネ!!

ただ、私が一番思っているのは、この言葉を必要としている人は、健康な人間ではない、ということです。肉体的にも精神的にも弱った患者の人たちにしみ入る言葉であってほしいのです。そんな言葉を私は探してみたかった・・・。

私は比較的元気な患者であったので、ある程度の準備のもとにインフォームド・コンセントを100%活用できました。私はこのやり方には、感謝している人間なのです。念のため。

山田

山田様

どうも私が山田さんを説得したようなことになってしまいましたでしょうか? 押しつけがましかったかもしれないところは、ご勘弁下さいね。

圧倒的に弱い立場にいる患者が、ほっとするような言葉やシステムがほしいということは、私も同感です。一般の患者だけでなく、医療過誤(疑いが誤解であるかもしれない状況も含め)にあった人たちが、保護と公正な支援を受けられるようなシステムも、作られなければいけないと思います。

究極の願いとしては、弱者に温かい社会になってほしい。その願いは多くの人がもっているはずなので、少しでも多くの人たちが、具体的に行動を起こせば、社会は変わるはず、と信じています。また一緒に考えていきたいですね。