第18期議案書
第18期議案書(2007年秋〜2008年秋)
1 患者の権利法制定に向けての動き
ハンセン病問題に関する検証会議の提言に基づく再発防止検討会では、7月に「患者・被験者の権利擁護のあり方」を検討するワーキングチームを設置し、患者の権利に関する諸外国の法制度や国際的な宣言・憲章、日本におけるこれまでの取組の状況を資料として、患者の権利法制化に向け「検討のための叩き台」の作成作業に入りました。医師会関係の委員からは「患者の権利擁護については新たな法律を制定するのではなく医療界内部の自律的指針で徹底を図るべき」との意見も表明されていますが、その一方で「患者の権利擁護に関する国の責務を明確化することも極めて重要」との指摘もなされており、法制化の方向性は固まりつつあると思われます。
10月3日、日本弁護士連合会第51回人権擁護大会で、「安全で質の高い医療を受ける権利、インフォームド・コンセントを中心とした患者の自己決定権などの患者の権利、並びに、この権利を保障するための国及び地方公共団体の責務などについて定めた患者の権利に関する法律を制定すること」という提言を含む「安全で質の高い医療を実現に関する宣言」が採択されました。日弁連が患者の権利に関する見解を、宣言という形で表明するのは1992年の「患者の権利の確立に関する宣言」以来ですが、今回の宣言は、今日の「医療崩壊」と言われている状況が、1980年代以降の医療費抑制政策の帰結であり、安全な医療を受ける権利に対する差し迫った危機であることを指摘し、「安全な質の高い医療を提供するにふさわしい人的及び物的な医療提供体制を整備すること」を求めている点で、医療を受ける側のみならず医療を提供する側の共感も得られやすい宣言になっています。
2 安全な医療を目指す動き
1) 診療関連死の原因究明制度
厚生労働省は、昨年10月に発表した「診療行為に関連した死亡の死因究明等の在り方に関する試案(第二次試案)」に寄せられたパブリックコメント及びその後の「診療行為に関連した死亡の死因究明等の在り方に関する検討会」の議論を経て、本年4月に「医療の安全の確保に向けた医療事故による死亡の原因究明・再発防止の在り方に関する試案-第三次試案」(以下、単に「第三次試案」と表記します)を、7月に医療安全調査委員会設置法案(仮称)大綱案(以下、単に「大綱案」と表記します)を発表しました。
概要は以下のとおりです。
1) 医療事故死等の原因究明・再発防止を行い、医療の安全の確保を目的とした医療安全調査委員会を創設する。委員会は、各医療事故死を調査する地方委員会と、医療の安全確保のための再発防止策の提言を主目的とする中央委員会から構成される。
2) 医師は、以下のような死亡または死産を検案した場合、医療機関の管理者に報告しなければならない。
i. 行った医療の内容に誤りがあるものに起因し、又は起因すると疑われる死亡又は死産
ii. 行った医療に起因し、又は起因すると疑われる死亡又は死産で、その死亡又は死産を予期しなかったもの(以上の2類型を「医療事故死等」といいます)
3) 医師法21条(異状死届出義務)の規定を改正し、上記2)の報告を行った場合には、医師法21条の警察への届出義務を免除する。
4) 医療機関の管理者は、上記2)の報告を受け、「医療事故死等」に該当すると認めた場合は、直ちに主務大臣に届け出なければならない。
5) 上記4)の届出を受けた主務大臣は、その旨を地方委員会に通知する。通知を受けた地方委員会は、当該医療事故死について、直ちに医療事故調査を開始する。
6) 医療事故死を疑う遺族は、主務大臣に対し、地方委員会に医療事故調査を行わせるよう求めることができる。求めを受けた主務大臣は、地方委員会にその旨を通知する。通知を受けた地方委員会は、通知に係る死亡又は死産が医療事故死等でないと認められない場合等をのぞき、直ちに医療事故調査を開始する。
7) 地方委員会は、当該医療事故死等について、次の場合に該当すると思科する場合は所轄の警察にその旨通知する。
i. 故意による死亡又は死産の疑いがある場合
ii. 標準的な医療から著しく逸脱した医療に起因する死亡又は死産の疑いがある場合
iii 当該医療事故死等に係る事実を隠蔽する目的で関係物件を隠蔽し、偽造し、又は変造した疑いがある場合、類似の医療事故を過失により繰り返し発生させた疑いがある場合その他これに準ずべき重大な非行の疑いがある場合
8) 地方委員会は、医療事故調査を終えた場合、報告書を主務大臣及び中央委員会に提出するとともに、医療機関及び遺族にこれを交付し、かつ公表する。中央委員会は、地方委員会からの報告書の分析及び評価に基づき、必要に応じて主務大臣に対する再発防止策を勧告する。
9) 医療法を改正し、医療機関の管理者は医療事故が発生したときには、その経過及び原因について患者又はその家族への適切な説明を行わねばならない旨の規定を設ける。
この第三次試案及び大綱案には、9月30日までにのべ732件のパブックコメントが寄せられています。医療関係団体からの意見には、様々なものがありますが、日本医師会が賛成の方向性を積極的に打ち出していることが注目されます。
なお、厚労省の医療安全調査委員会設置法案(大綱案)に対し、民主党は、独自に「医療に係る情報の提供、相談支援及び紛争の適切な解決の促進並びに医療事故等の再発防止のための医療法等の一部を改正する法律案(通称:患者支援法案)」を策定し、また「医療事故等による死亡等(高度障害含む)の原因究明制度(案)」を発表しています。
(2) 産科無過失補償制度
昨年8月にまとめられた「産科医療補償制度設計に係る医学的調査報告書」(産科医療保障制度調査専門委員会)に基づき、本年1月、「産科医療補償制度運営組織準備委員会報告書」が発表され、2009年1月より産科医療補償制度が創設されることになりました。
制度概要は以下のとおりです。
1) 補償対象 分娩により次の基準を満たす状態で出生した児
i. 出生体重2,000g以上かつ在胎週数33週以上(この基準に該当しない場合でも在胎週数28週以上であれば周産期状況から個別に審査)
ii. 身体障害者1又は2級相当の重症児(但し、先天性要因などの除外基準に該当する場合を除く)
2) 補償内容
準備一時金 600万円× 1回(看護・介護の基盤整備)
補償分割金 120万円×20回(看護・介護費用のための年金)
3) 原因分析
補償対象となった事例につき、原因分析委員会において医学的観点から検証・分析し、その結果を児とその家族及び分娩機関にフィードバックする
4) 再発防止
原因分析された個々の事例情報を体系的に整理、蓄積し、広く社会に公開することで将来の脳性麻痺の発症の防止等産科医療の質の向上を図る。
基本的には、分娩を扱う医療機関が任意に加入するシステムですが、保険料による負担増を嫌って加入しない医療機関もあり、現時点の加入率は94%とされています。厚生労働省は加入率を高めるため、この制度への加入を、危険度が高い妊娠・出産の医学管理に加算される診療報酬の算定要件とするシステムを中央社会保険医療協議会に提案し、議論が継続中です。
(3) 裁判外紛争解決手続(医療ADR)
昨年9月に東京の三弁護士会(東京、第一東京、第二東京)が医療事故紛争の裁判外紛争解決手続(医療ADR)を発足させていますが、日本弁護士連合会は、これを全国に拡げる方針を決定しました。2009年春までに高裁所在地5ヵ所以上での設立を目指しています。
厚生労働省も、医療ADRの活用に向け、医療界、法曹界、各都道府県等に設置された医療安全支援センター、関係省庁、民間の裁判外紛争解決(ADR)機関等からなる協議会を設置し、情報や意見の交換等を促進する場を設けることとしており、関係予算を平成21年度の厚生労働省予算概算要求において計上しています。
(1) 後期高齢者医療等
2006年6月の医療制度改革関連法案の一環として創設された「後期高齢者医療制度」が本年4月から施行されました。施行当初から、年金からの保険料天引きや保険料の誤徴収が大きな社会問題となり、日本医師会をはじめとする医療団体が全面的な見直しを求める声が上がるほか、地方議会の中止・撤回や見直しの決議が相次ぎ、6月には参議院において後期高齢者医療制度廃止法案が可決されるという事態になりました。厚労省は、高齢者の子による保険料肩代わり、低所得者に対する保険料軽減措置等の見直しや特例措置で批判をかわそうとしていますが、これらの施策が運営主体である地方自治体や広域連合に徹底せずさらに誤徴収が生じるなどの混乱が続いています。
また、厚労省は医療制度改革の一環として療養型病床25万床の4割削減を計画していましたが、都道府県毎の需要調査の結果、25万床を確保することが必要であることが判明、削減計画を断念することとなりました。
(2) 医師確保対策
2006年以来叫ばれ始めた「医療崩壊」に対し、厚労省は文部科学省、総務省とともに同年8月に新医師確保総合対策を、昨年5月には緊急医師確保対策を策定し、さらに本年6月、「安心と希望の医師確保ビジョン」を発表しました。
新医師確保総合対策においては、1997年の「医学部定員数の削減に取り組む」とした閣議決定には踏み込まず、「一定期間、将来の医師の養成を前倒しする」としていましたが、今回の「安心と希望の医師確保ビジョン」では、「従来の閣議決定に代えて、医師養成数を増加させる」という方針を明確にしています。
また、医師数のみならず、看護師をはじめとするコメディカル雇用数の増加、臨床研修制度の見直し、診療科のバランスの改善等も含んだ総合的な対策が謳われています。
7月からは「安心と希望の医師確保ビジョン」具体化に関する検討会の議論が始まりました。同検討会が9月に発表した「中間とりまとめ」は、冒頭に「医療費の対GDP比がOECD30カ国の中でも21位という低い水準にある」という本質的な問題点を指摘したうえ、「我が国の人口10万人対の医師数はOECD30カ国中26位と低いこと、OECDの平均医師数が我が国のそれの約1.5倍であることも考慮し、医学部教育・地域医療に支障をきさないよう配慮しつつ、将来的には50%程度医師養成数を増加させることを目指すべきである」としています。
(3) 「5つの安心プラン」
福田内閣は、医療問題のみならず、年金問題などで厚生労働行政に対する社会的信頼が揺らいでいることから、8月、「5つの安心プラン」を閣議決定しました。
i 高齢者が活力を持って、安心して暮らせる社会
ii 健康に心配があれば、誰もが医療を受けられる社会
iii 未来を担う「子どもたち」を守り育てる社会
iv 派遣やパートなどで働く者が将来に希望を持てる社会
v 厚生労働行政に対する信頼の回復
「健康に心配があれば、誰でも医療が受けられる社会」を実現するために、「救急医療や産科・小児科医療をはじめとした地域医療の確保、医師不足や勤務医の過重労働等に対する対応が課題となる中で、国民の医療に対する安心を確保し、将来にわたり質の高い医療サービスが受けられるよう、『安心と希望の医療確保ビジョン』で示した施策の実現に向けて取組を進める」とし、必要な環境整備の「医療リスクに対する支援体制の整備」の項目には以下の3つが挙げられています。
i 産科医療補償制度の創設と運営
ii 医療安全調査委員会設置法案(仮称)の国会提出
iii 裁判外紛争解決制度の活用の促進、医師等の患者・家族の意思疎通を図る相談員の育成
この閣議決定に基づき、内閣府に「厚生労働行政のありかたに関する懇親会」が設置され、議論が始まっています。
現段階の情勢
昨年8月には、奈良県で救急患者のたらい回し事件が大きな話題となりましたが、本年10月には東京でも同様の事件が発生しました。厚労省は、前掲「安心と希望の医師確保ビジョン」を策定し、その具体化に向けての検討が始まっていますが、このような議論の中で、現状の「医療崩壊」は1980年代以降継続されてきた医療費抑制政策の帰結であるという社会的認識が形成されつつあり、各界から医療費抑制政策の限界を指摘する声が挙がりはじめています。
閣議決定「5つの安心プラン」の中に、「健康に心配があれば、誰もが医療を受けられる社会」が謳われ、この閣議決定に基づいて内閣府に「厚生労働行政のありかたに関する懇親会」が設置されるという状況は、この問題が既に厚生労働行政の枠を超えた大きな問題になりつつあることを示しています。また、ここで無過失補償制度(産科医療補償制度)、医療事故原因究明・再発防止制度(医療安全調査委員会設置法案)、医療事故紛争解決(裁判外紛争解決制度)等が、「健康に心配があれば、誰もが医療を受けられる社会」実現のために必要な環境整備の一つとして位置づけられていることは、患者の権利の自由権的な側面と社会権的な側面とを表裏一体のものとして保障していくという方向性に近づいているとも言えます。
一方で、第三次試案及び大綱案に対するパブリックコメントに示された医療関係団体の意見書や、この問題を巡るネット上の議論等からは、現場の医療関係者の疲弊感及び行政、マスコミに対する根深い不信感が伝わってきます。しかし、よりよい医療を求めようという方向性である限り、相互理解は可能です。誠実な医療関係者との連携を深め、その問題意識を前向きに転ずる働きかけを強めれば、患者の権利を大きく前進させる力になり得るはずです。
この約20年間、医療を巡る状況は大きく変化してきましたし、さらに大きく変化しつつあります。政治的、経済的情勢が極めて不安定で予測の立てにくい状況ではありますが、患者の権利法制化のチャンスであることは間違いありません。